そんなもの

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そんなもの

 駅前の商店街に着いた。  日が暮れると、喫茶店や食堂は居酒屋に変わるようだ。大規模な酒場へと形を変えた商店街は、電車を降りてくる人々に煌びやかな灯りを見せるのだった。  それなのに、私は戸惑っている。  ひとの多いところが苦手な性分なのだし、私にはお酒を飲みに行く習慣がなかった。結婚してからは外出する機会もなくて、たまに夫とレストランに行くぐらいになっている。結婚前のデートでも、夫は十代だった私をこういう場所に連れて行かなかったのだ。  しかし、この商店街を通らねば。  彼に逢いたいのなら、この商店街を通らねば。  意を決して、私は商店街に入って行った。  やはり、私は賑やかな場所が苦手のようだ。  空が暗くなってきたというのに、人々は家に帰る気がないのだろうか、笑いさざめく群れとなって街を闊歩している。彼らは賑やかな夜を求めているようだ。  商店街もまた、夜の闇と彼らの訪問を喜んで迎え入れている。  私にはそう思えた。  あちこちの店先で「酒場」と書かれた提灯が眩しく揺れて、往来する人々を誘いこんでいるのだ。流れてくる音楽もどこか官能的なものがあって、魅力的な男性に甘い声で囁かれているような気分になるのだ。  けたたましい笑い声が響いてきた。  居酒屋の前を、派手な笑い方をする女達が過ぎて行ったのだ。訳もなく目をそらした私は、足早にその場を離れた。  逃げるように歩く私の背中に、巨大なざわめきが容赦なく迫ってくる。煌々とした灯りのなか、私は顔を伏せて近くの建物の陰に逃げ込んだ。 「ほっ」とため息をつく。  誰も居ない路地は気楽で良い。  向こうから若い女がやってきた。  ずいぶんと着飾っている。  突然、彼女は「きゃっ」と嬉しそうに叫んだ。  恋人がやってきたのだろう。  彼女の顔の輝きを私は見つめた。  この幸せが続くと信じているような笑顔だった。恋人との別離に驚き戸惑う日が来ても、何もおかしくはないというのに。今が楽しいと、女は何も考えないのだろう。  かつての私もそうだった。  優志と別れることはないと信じ込んでいた。  好きで好きで堪らなくて、毎晩のように電話で互いの気持ちを確かめていた。 『ね。私のこと、ほんまに好きなんやね』 『そんなん、好きに決まってるやん』  でも、私は自分から優志と別れた。  驚く友人に『恋愛とはそんなもの』と私は言ったのだ。  あのときの私は優志が嫌いになっていた。嫌いなら、無理に付き合う必要はない。そう考えた。  それが今、こうして自分から優志に会いにきたなんて。    暗い路地を急いで歩く。  彼に早く逢いたいとはやる気持ちは、辺りの暗さや狭い路地に置かれた物置などの存在を私に意識させなかった。路地の奥で転んだときも、私は考えていたのだ。あの坂の上で彼を待ち伏せしよう、と。  コートについた埃を手で払いながら、私はいろいろと計画を練っていた。  彼のほうから私に気が付いてくれたら良いのだけれど。  しかし、あれは暗くて長い坂道であるし、黒いコートを着た私なのだ。彼は私に気が付かないだろう。  やはり私から彼に駆け寄っていくしかない。  そう、さりげなく。 「私、仙台から優志に会いに来たんよ」  いっそ、そんな風に言って、正直に気持ちを打ち明けてみようか。                
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