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追憶
彼に逢うために私は長い坂道を上っていく。
純粋だったあの頃の自分を、切ないほどに懐かしみながら。
高校一年生の初夏。
私は彼の家に遊びに行った。
緑の樹々に囲まれた古い木造二階建ての家。
それが彼の家だった。
玄関の格子戸を開けながら、彼は大声で自分の母親を呼んだ。
「おうい、おかん。美沙子が来たで」
奥の方から「はあい」と穏やかな声が聞こえた。
現れたのは、彼と同じように面長でほっそりした女性。
彼は私を紹介した。
「この子が樋口美沙子。な、可愛いやろ」
「ほんと、可愛い。いかにも女の子っていう感じで」
彼のお母さんの優しい眼差しに、人見知りをする私は少しほっとした。
「美沙子ちゃん。ゆっくりしていってね」
「有難うございます」と私は顔を赤くした。
それからも、彼の家でよく遊ばせてもらった。
一番に好きだったのは、裏庭。
そこには多くの樹々が植わっていた。それぞれが日陰を作り出していたからだろう、あたりの空気と土は常に湿気を含んでいて、裏庭は独特な匂いに満ちていた。
雨の季節には、和室にも裏庭と同じ匂いが漂うのだった。その湿った匂いは畳や襖に染みこみ、いつもと違う部屋のように思えた。
彼が呟く。
「雨、止まへんな。お前、退屈やろ」
「ううん。庭見てたら、私は退屈せえへんよ」
「ふうん」と彼は不思議そうに私を見た。
そのとき、私は庭に広がる黄緑色の苔を見つめていたのだ。地面だけでなく、庭石や木の幹にも苔は生えていた。
彼が二階の自室からゲーム機を持ってきた。
「この部屋、暗いやん。俺はあっちに行くで」
縁側の湿った板の上にごろんと転がり、彼はゲームを始めた。彼が遊ぶゲームの効果音が、座敷にいる私の元にも聞こえてくる。
その途中で彼が私に声をかけた。
「美沙子。おまえもやらへんか」
「それ、難しいゲームやろ。やめとくわ」
「さよか」と彼は陽気に笑った。
どうして彼が笑うのか、私には分からなかったのだが。
大学に入った春に、彼はアパートを借りて家を出た。
「高校出たらアパート借りて自立しよと思てた。そこやったら、美沙子とゆっくりできるやん」
「そうやったんや」
短い返事だけれど、彼の気持ちが嬉しかったのは本当だった。
「けど、俺の部屋、見たらびっくりするで。ベッドとパソコンだけや」
私は笑った。
それから二か月後。
ケーキの箱とペットボトルのミルクティを持って、私は彼の部屋を訪ねた。
私は緊張していた。
三度目の訪問だったが、夕方に玄関ドアをノックするのは初めてなのだ。
そう、あの夜に招待されたのは私ひとり。
床に座って、ケーキの箱を開く。
彼は慌てた。
「しもた。ケーキの皿、ないねん」
「これ、紙の箱やん。適当に破ってお皿にしたらどやろ」
私たちはとうとう、ケーキの箱をバラバラにしてしまった。
彼は甘いチョコレートのケーキ。
私はレアなチーズケーキ。
「泊っていくやろ」
食べながら彼が聞いてきた。
「私をここに泊めて大丈夫なん。お母さん、心配しはるやろな」
「かまへん。俺は美沙子が好きなんや」
私は微笑んだ。
彼は立ち上がり、紺色のカーテンを閉めた。
部屋は暗くなったけれど、彼は灯りをつけようとしない。
真剣な眼差しで私に聞くのだ。
「俺ら、これからどうなんねん。このままなんか」
彼の言葉の意味を分かっていた。
私、そのつもり。
でも、今は困る。
「ちょっと待って。私、ケーキが途中」
彼は床に座り、スマホでゲームを始めた。
「待ってるから、早よ食べてまえ」
「ごめん、ケーキ優先で」
彼は笑いながら言った。
「今度からケーキ買うてくんな」
甘いミルクティを飲みながら私は考えた。
次からはストレートティを買ってこよう。顏が歪むぐらいに苦みの強いものを飲んでみたい。
砂糖の入っていない、舌をしびれさせる苦い飲み物。
それが今の私の気持ち。
ここは狭いワンルーム。
嫌でも彼のベッドが目に入ってくる。
シーツは薄い黄緑色に真緑の葉の模様。
あの緑色に身を沈められた私は、着ているものを彼に剝ぎ取られる。そのあと、恐怖に震えながら犯されるのだ。
はっとした。
彼に「犯される」なんて、私は何を考えているのだろう。
母には女友達の家に泊まると言った。そんな嘘をつかねばならないほど、私は彼との夜を待っていたのだが。
カタン。
びくんとする私。
それは彼がスマホを床に置いた音。
いよいよだ。
私の体はガタガタと震え始めた。
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