杜の都へ

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杜の都へ

 思わず言ってしまった。 「私、帰る」  彼は慌てた。 「やめとき。外はもう暗いねんで」  私は返事をしなかった。  暗い夜。  人影のない寂しい道。  電車の駅へと、私は急ぎ足に歩いた。時どきに走っていたのは、彼が私のすぐ後ろを歩いていたから。 「私について来んといて」  そう叫びたかったが、後ろを振り返る勇気はなかった。隙を見せた瞬間に、彼が私に飛びかかってくるようで。  とうとう、私はタクシーに乗った。     帰宅後、彼からメールが送られてきた。 「ちゃんと家に着けたんか」 「今、テレビ見てるから」 「そうなんや」  それっきり、私は彼にメールを送らなかった。    どんどん彼と疎遠になっていく。  彼は京都の大学。  私は大阪の短大。  彼と顔を合わすことはなくなった。  その年の秋。  自宅がある天王寺区のスーパーで、私はレジのアルバイトを始めた。  食品売り場の蒔田主任が私に言った。 「今時には珍しいぐらい清楚な子だね」  それは誉め言葉だと思って嬉しかった。  しかし、私は「自分」を知っていた。私はそんなに清らかではない。結局は怖くなって逃げ出したが、恋人のアパートへ泊りに行くようなこともしてきたのだ。 「そんなんじゃないです」  正直に答えた。 「私は清楚ではありません」  蒔田主任は面白そうに笑った。 「いや、樋口さんは野の花のイメージだな。小さくて白い花だ」  よく分からない。  私のどこが「小さくて白い花」だと、蒔田主任は考えたのだろう。  蒔田主任の顔を見上げた。まさかと思うが、私をからかっているのかもしれない。  潤んだ目で見つめられていた。  私は戸惑った。  このひとは私が持つ空白感を知らないのだ。    一年後。  私は蒔田主任と結婚の約束をした。  短大を卒業した春に仙台へ行って花嫁となる。 「仙台で暮そう。僕の故郷に来てほしい」  大阪から遠い仙台に行くことは躊躇われたが、夫の意のままに生きることが妻なのだと私は考えた。  それなのに。  蒔田主任とデートをする度に、私の心は沈んでいったのだ。  蒔田主任の車で京都や奈良の観光地によく出掛けた。  青い空とそよ風に揺れる花。その中を蒔田主任と手をつないで歩く私は、半年後の自分も、こうして杜の都を散策するのだと嬉しく思っていたのだ。  それが、公園や古民家カフェに行くと、その幸福感は姿を隠すのだ。その地を這う黄緑色の苔を私が見てしまうからだ。  よみがえってくるのは、あの情景。  彼の家で過ごしていた高校生の私。  しとしと降る雨とそれに濡れた苔の穏やかな黄緑色。  そして、彼。  雨で湿った縁側に寝転んでいた。   彼のお母さんの穏やかな声が聞こえてくる。 『美沙子ちゃん。優志の名前にはね、願いを込めてあるんよ。優しい子になるようにって』    私は不安になる。  どうして彼を思いだすのだろう。  女心の分からない彼のことなんて、忘れたほうが良いに決まっているのに。 「どうした。何か考えてるな」  私を現在に呼び戻す声。 「せっかくの熱い珈琲が冷めてしまうぞ」と優しく笑っている。  私は微笑み、ゆっくりと首を横に振った。  そうして冷めかけた珈琲を飲んだ。  私の未来はこのひとにある。                                  
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