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「うん。道はだいたい覚えた」
「また来てね」
「うん」
ただし遠いんだよなあ。道のりを思い浮かべ言葉を飲み込んだ私の顔色を瑠衣は読み取り、申し訳なさそうに言った。
「ごめんね」
「いいって。……また来月かな」
「来月ね」
ドアの隙間に消える姿を見届け、私は口に手を当て思うぞんぶんあくびをした。帰ったらひと眠りしたいぐらいだけど、今日は天気がいいからたまった洗濯物を片づけなければならない。
ふいに隣の部屋のドアが開き、男が顔を出した。背が高いので私は間抜けな表情を見下ろされる格好になった。
「……どうも」
面食らった表情のまま、男がうなずくように頭を下げた。私も会釈をして通り過ぎる。あくびした瞬間を見られるなんて、タイミングが微妙すぎて気まずい。さっさと階段を降りアパートを出ると背後から男の声が追いかけてきた。
「おい、ちょっと。隣の人?」
「いえ。友人ですけど」
昨夜騒がしかっただろうかと考えたが、迷惑をかけるほど盛り上がった覚えはない。男はそうか、と首の後ろをかいた。
「いや……最近この辺、変な男がうろついてるっていうから」
追いかけてまで言うことだろうか。瑠衣からそんな話は聞いていない。
「かわいいね」
「は?」
「そのマフラー」
「……ありがとうございます。友人に伝えておきますね」
私はもう一度頭を下げ、踵を返した。声が一瞬にして零度以下にまで冷却されたのは気づいていた。マフラーを口元まで引き上げる。初対面で即座に褒めるような男は苦手だ。しばらく不快な気分に苛まれていたが、それも歩いているうちに収まってきた。
瑠衣の新居の周辺は住宅地で高い建物もなく、空は広々としていた。長閑でいいけど、実際ずいぶん遠くなった。電車と徒歩を合わせると一時間以上かかる。以前は徒歩十分の場所に住んでいた。
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