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なぜ忘れてしまっていたのだろう。ほんの数日間だが、確かに暁の心を支えてくれた大切な存在だったのに。暁は両手で挟むように自分の頬をバシバシ叩いた。
倒れている椚丸はさらに幼くなっていく。このままにしておくとどうなるのか暁にはさっぱりわからなかったが、いい予感はしなかった。慌てて切れてしまった赤い紐を結び付けた。
急速に成長し始め元の大きさに戻った椚丸は、ぱちっと目を開けた。覗き込んでいた暁は安堵のため息を漏らした。
「追いかけるのに夢中になっちまった…こんな目に遭わせて悪いな。」
状況を思い出したようで、ゆっくり起き上がりながら椚丸は謝る。暁は首を振った。
「いや、俺もぶつかってごめん。」
「…結んでくれたんだな。」
椚丸は紐を手繰り寄せて微笑んだ。
「俺、たった今お前のこと思い出したんだ。おじいちゃんが死んだ日のこと。ずっと忘れててごめん。」
椚丸は少し驚いたようだったが、「いいんだ。」と短く言って立ち上がった。
「そういうもんさ。こっちの世界とあっちの世界はそもそも交わるべきではない。忘れるのが自然なんだ。特にお前は子供だったし。」
しかし、椚丸は暁のことを覚えていたではないか。暁は自分に腹が立った。
「お前は約束通り、毎年紅葉を撮りに来てくれてただろ。俺はそれで結構満足してたんだ。」
暁は立ち上がり、傍に落ちていたカメラを拾って首にかけた。
「これからも約束通り、俺はまた写真を撮りに行くから…紅葉を取り戻そう。」
暁の力強い言葉に、椚丸はしっかりと頷いた。
椚丸が気配を辿った先の景色を、暁はまた撮影した。先ほどの天狗は常緑樹の枝にとまっていた。
「今だ!」
椚丸は道中見つけたカラスを術で操り囁いた。不意をつかれた天狗はカラスの鉤づめにがっちりと捕らえられてしまった。暁はカラスからもがく天狗を受け取り、しっかりと両手で捕まえた。椚丸は術を解き、カラスを解放した。
「俺の筆を返せ。」
椚丸は天狗の背中にさしてある2本の筆をすっと抜き取った。
「やっぱり!これは俺のだ。お前は…朴の木助(ほおのきすけ)っていうのか。」
「気安く俺の名を呼ぶな!」
キーキーと朴の木助は怒った。お前に起怒る筋合いはないよ、と暁は呆れてしまった。
「朴の木助、何でお前椚の筆を盗んだんだよ。お前も立派なのを持ってんじゃないか。」
嘘ではなかった。暁にはどちらの天狗の筆もとても素敵なものに見えた。書初めの時に使うような大きめの筆だ。穂先はふわふわにほぐされている。どちらも味のある書体で名前が彫られており、名前は金色に輝いている。
「正直に言わねぇと、神様に言いつけるぞ。」
ずっともがいていた朴の木助はぴたっと動きを止めた。「そ、それだけは…。」顔が青ざめている。神様どんだけ天狗に恐れられてるんだ…。
「うらやましかったんだ。俺のところにはほとんど人が来ない。お前の筆を使えば、きれいに染められて、この山も賑わうと思ったんだ。」
みのり渓谷の存在は、たまたま人が持っていた紅葉ガイドを見て知ったそうだ。
椚丸は「あのなぁ…。」と、朴の木助を軽く小突いた。筆に込められた力は持ち主が込めないとそのうちなくなってしまうから、他人の筆を使っても意味がないと言い放った。
「知ってるさ!でも今年だけでもいいから、鮮やかにしたかったんだ。俺にはどうしても出せない色だったから。」
朴の木助はしょんぼりとしている。暁はだんだんこの天狗が、可哀そうになってきた。
「椚、今年だけ手伝ってあげたら?」
「手伝えねぇよ。俺があの色を出せるのは…。」
椚丸はちらっと暁を見て、言い淀んだ。不思議そうな暁と拗ねたような顔の椚丸とを、朴の木助が交互に何度か見やった。
「こいつのためか。きれいな紅葉を見せてやりたいんだ、お前は。」
「あーもう、お前!」
うんうんと頷く朴の木助の頭を、椚丸が「余計なことを言うな!」とぐりぐりと押した。
頬を赤くした椚丸は朴の木助の方を努めて見ているようで、暁の方に顔を向けようとしない。そんなあからさまな照れ隠し、こっちも照れるわと暁は手で顔を覆った。
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