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今のこと
中庭が閉鎖されると知った時、大袈裟じゃなく、私の呼吸は一瞬止まった。
夕方に大学から帰ってきて、郵便受けから封筒を拾い上げたときにはまだ、何も予感していなかった。張りのある上質な紙を惜しげなく使ったその封筒には、卒業以来一度も足を踏み入れていない母校の校章が型押ししてあり、仰々しい品の良さとでもいうものがいかにもあの学校からという風を醸し出していたので、私は思わず顔をしかめた。中身はなんにせよ速やかに処分してしまおうと、リビングテーブルに封筒を放り、入っていた3つ折りのプリントを広げた。
《高等学校校舎の大規模耐震工事に伴う中庭閉鎖のお知らせ》
見出しが目に入った瞬間、ひゅっ、と、喉が締まった。我に返り慌てて息を吸う。さぼった呼吸の反動のように心臓が早打ちし始めるのを、体の奥深くに感じる。普通紙のプリントに書かれている文言を、私は放心しながら馬鹿みたいに繰り返し読んだ。
「在校生徒・保護者様・教職員の皆様、このたび当校は高等学校校舎の全面耐震工事に臨みます。チャペルに面している中庭は、以前から予定されている通りに改修期間中、すなわち来月10月10日から、閉鎖するはこびになります。工事の機材や作業員が出入りされますので、無断で立ち入らないようご注意ください」
4回読み直して、漸く不自然さに思い至った。簡素で事務的な文面。もしこれがOG宛の手紙だとしたら、用事もなしに訪れるはずのない高校の中庭について前置きなしに注意喚起してくるあたりが些か唐突であり、しかも今日10月3日に届く手筈の文書で、10月10日を来月と呼ぶのは無理がある。プリントに印字された発行日は9月29日だった。封筒をもう一度表に返すと、さっきは気に留めなかったものの、私の住所と名前が、ボールペンでわざわざ直に手書きしてある。無視できない違和感に呼び起こされた記憶が、凪いでいた心の底から得体の知れない何かを乱暴に引き摺り出していく。
キッチンカウンターの向こうに立つ母に、さりげなく声をかけた。
「明日、帰りに高校寄ってくるから遅くなる」
「高校?いいけどどうしたの?」
母は茹でたじゃがいもを潰す手を止めた。
「深晴、あの学校嫌いだったでしょ?」
私は神妙な表情を顔に貼り付け、余計なことを悟られる前に2階の自室へ急いだ。ドアを閉めてしまうと急に力が脱け、そのままドアにもたれかかって冷たいフローリングの床に座り込み、両手で顔を覆った。
恐らく在校の内部者向けに配られたであろう紙切れを丁重に包んだ上で、しかし敢えて名乗らずに横流ししてくるような人物を、私はたった1人しか思い出せなかった。
固く閉じた瞼の裏で、いかにも伝統校で使われがちな上品な白緑色の封筒と、柔らかい陽に照らされた小さな横顔とが走馬灯のように駆け巡る。
あらたちゃんは高校の教師だったが、私は彼の授業を教室で受けたことはない。中庭で勉強を教えてもらった時のテキストはとうに捨ててしまったし、彼が俯いて何かを書いている間、ボールペンに添えられた指の方ばかりを見つめていた私は、目の前にある変哲のない筆跡が果たして彼のものなのか、判断する術をもたなかった。
その事実は、私の感情をひどく揺さぶり、絶望させた。あらたちゃんと私を繋ぎ止めるものは、危うく歪んだあの頃の記憶の中にさえ、もう何も残ってはいないのだから。
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