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「もういっそのこと死んでしまいたい」
そう彼女が口にしたのは何度目だろうか。
ぽろぽろと涙をこぼしながら、彼女はスマホに指を伸ばした。
緑色のメッセージアプリを開き、先ほどまであった連絡先の一つを消す。
要するに、彼女は恋人に振られたのである。
ぼくが慰めるように彼女のそばによると、頭をなでてくれた。
ついでに口も舐めようとしたけれど、それは拒否された。
「う~……、だいふく~?慰めてくれるの~? ありがと~……」
だいふくは、ぼくの名前だ。お礼をいわれたということは……おやつがもらえるかも!
ぼくがしっぽをぱたぱたと振ると、彼女はさらに破顔して笑った。
ああ、ぼくは彼女のその顔が大好きだ。
「きいてよ、大福。あのクソ野郎、私が犬飼ってるって知ってるのに一週間の旅行に誘ってきたんだよ?犬も連れて行っていいって聞いたら拒否されたし。ペットホテルだってここら辺にないのにどうしろって話よ。それで断ったら態度激変するし。私はあんたの操り人形じゃないんですよーだ。いいもん、私には大福がいるから。ね?だいふく!」
呼ばれたからには返事をしなくては。
わんっ、と高らかに返事をすると、彼女は笑った。
その日のお散歩はいつもより長い距離を歩いた。たまにしか行かない道、風景。風も心地いい。ぴゅーぴゅーっと、風がぼくの毛をなでていく。最初は俯いていた彼女も、いつの間にかぼくより足取りが軽くなって、ご機嫌になっていった。だんだん、歩くスピードも速くなっていって……ほんと。大きく、なったなぁ。ぼくはもう、疲れちゃったよ。
「あれ、大福?走らないの?……そっか、もうおじいちゃんだもんね。ゆっくり歩こうか」
ゆっくりと歩くペースを守っていた僕に気づいた彼女は、ぼくの歩幅に合わせてのんびり行ってくれた。
ぼくにはもう時間がない、らしい。あともう少しで、きっと……彼女には会えなくなる。どうやら、ぼくと彼女にはじゅみょう?差があって、ぼくの方が彼女より時間の流れが速いようで。悲しいけれど、こればっかりは仕方ない。外で震えていたぼくを、あの笑顔で助けてくれた彼女にはいっぱい幸せをもらった。もう、十分だ。
でも、心配事が一つある。彼女自身だ。
ぼくが死んでしまった姿を見たら、きっと彼女は悲しい気持ちになってしまう。
それどころか、彼女を慰められなくなってしまう。すぐ死んじゃいたいなんて言う彼女のことだから、落ち込みすぎたら本当に死んでしまうかもしれない。
それは、本当に、いやだな。
最近は、そのことで悩んでいる。
どうしたら、彼女を悲しませずに死ねるんだろうか。
ある日。彼女があわてて帰ってきた。
手に持った毛布で何か暖かいものを包んでいる。
「どうしようどうしよう……猫拾っちゃった!獣医さんは奇跡的に問題ないっていってたけど……だいふく!仲良くできる?」
そういって彼女が見せてきた毛布の中身は、何やら変な黒い毛むくじゃらだった。
彼女が仲良くしてというなら、してやろうじゃないか。
そう思って、その毛むくじゃらに唸らないでいると、彼女はほっとしたように笑った。
ちなみに、友好の証として舐めようとしたら「まだ『よぼうせっしゅ』していないから駄目!」と引き離された。よぼうせっしゅ、ってなんだろう。いやな響きだ。
その毛むくじゃらは、「黒豆」と名付けられて家の一員となった。
毛むくじゃら、もとい黒豆はとにかくあばれんぼうで、夜だというのに彼女のおふとんの周りを走り回ったりしていた。
でも、そのたびに彼女は眉毛を下げながら笑っていた。彼女は最近ずっと、疲れやすくなったぼくを見てさみしそうな顔をしていたから、久しぶりの笑顔だった。むぅ。これまで彼女を笑顔にする役目は、ぼくだったのに。でも、彼女の笑顔が見れてうれしかったのは事実だったので、黒豆をご褒美に舐めてやった。黒豆は逃げた。なんで?
それと。黒豆は、彼女が落ち込んでいたらそばに行って慰めることも知っているらしい。彼女が縮こまっているときは、一緒になっておしくらまんじゅうみたいに彼女を慰めた。
ちょっと悔しいけれど。黒豆は、きっとぼくの役割を交代してくれる……つまり、もうぼくはいなくなっても大丈夫。
前に。彼女が見ていた画面に映る人間が言っていた。
たしか、ねこ?は命が残り少なくなると飼い主の前から姿を消すみたいだ。
ぼくは「いぬ」らしいけれど。おんなじことをしてもいい、よね?
ぼくが死んだ姿を見たら、きっと彼女は悲しむから。
遠くへ行こう。彼女がたどり着けないくらい、遠くへ。
彼女がおしごとに向かったのを見送って、ぼくは彼女の前から姿を消した。
「だいふく……?大福!!どこ?」
あれ……?彼女の声が聞こえる。
おかしいな。遠くに行ったはずなのに。
かくれ……なきゃ。はやく、かのじょに、みつかるまえ、に…………―。
「だいふく!!!!!」
ふわっと、だきしめられた。
ああ、落ち着くにおい。彼女の、におい。
おみずがぽたぽたと垂れてきて、ぼくの毛を湿らす。
彼女が、目を真っ赤にして泣いていた。泣き顔より、笑う顔の方が好きなんだけどな。
気づくとぼくは、もとの家に戻されていた。
黒豆がこちらを見つめてくる。
なんだよ。逃げ出したくせに、ってことか?ぼくだって、頑張ったんだからな。
お返しに、黒豆を睨もうとしたけれど。視界がかすんで上手く見れなかった。
……からだも、上手く動かない。きっともう、ぼくは……。
彼女を見た。最期にみる彼女の顔は、ぼろぼろに崩れていて。でも、笑っていなかった。
「ごめんね、ごめんね大福。私が、わたしのせいで」
びちゃびちゃと、彼女の瞳から大粒の水滴が滴ってくる。
そんな顔させたくなかったから、離れたのになぁ。なんで見つけちゃうかな。
さいごの力を振り絞って、彼女の目についたおみずをなめる。
「ひゃ、くすぐったいよ、だいふく……」
思わず、彼女が微笑んだ。そうそう、その顔。大好きだ。
霞んでいく視界の中。それが、ぼくが最期に見た彼女の顔だった。
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