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三
坂本裕次郎と呼ばれた男は、タチバナにだけ軽く会釈をすると、こちらに目配せをしてきた。早々に退散しろ、と言うことか。そう急かされると出て行きたくなくなるのが、人の常と言うものだ。僕は、微笑を浮かべてポケットに手をつっこむと、煙草を取りだして火をつけた。しばらくの間、店内は静かだった。彼女も別段何を言うでもなく、新しい煙草を取りだすと、それをくわえて火をつけた。そうして、居心地悪そうに立ちっぱなしになっていた、坂本裕次郎に視線を投げて、微笑を浮かべた。
「そんなに、橋本有也の心の中を知りたいのかい?」
何の話をしているのか、さっぱりわからなかった。しかし、坂本裕次郎は大きく眼を見開くと、瞬間的にこちらをじっと睨んできた。その双眸の奥には、「出て行け」と、言う非難の色が混ざっている。さすがにまずいかな、と歩き出そうとしたが、意外にもそれを止めたのは、タチバナの手だった。しっかりと腕を握られて、身動きが取れなくなった。もう帰るから、とつぶやいて彼女を見たが、無言でそれをはねつけられた。
「なぜ、知りたがる?もう君たちは何の関係もないのだろう?」
「こんなところで、そんな話しを」
「じゃあ、どこでなら満足なんだ?」タチバナの声は、一層低くなって店内に響いた。坂本裕次郎はぐっと、押し黙るとうつむいてしまった。僕は、話しがわからないなりに推理してみようと思ったが、面倒になって止めた。そもそも関係がないのに、こんなところに当面して困っているのだから。やはり、店を出て行こうと、口をはさもうとした時だった。
タチバナは急に僕の方に顔を向けて、うっすらと笑みを浮かべる。「さて、話しの続きだ」と、言って坂本裕次郎の存在事態、無視した。意外だった。彼女が、これほどまでに他人を嫌悪し、また存在否定までしている姿を見たのは、はじめてだったからだ。
「続きって」
「ああ、カビのことさ」
「そのことなら、もういい。どうせお前はでたらめしか言わないからな」
タチバナは愉快そうに眉を下げると、肩をゆらして笑いだした。先ほどまで、険のある声で男を威嚇していた人物とは思えないほど、おだやかな声で笑っている。何がそんなにおかしいんだ。と、訝しそうに眉をよせる。それでも、彼女はやはり、微笑むだけだった。
「でたらめじゃないよ。君、それ放って置いたら、どうなるかわからないよ」
「だからと言って、どうしたら取れるんだよ。大きくするなと言っても、勝手に大きくなるんだぜ?どうしようもない」
「簡単なことだよ。悪いことを考えなければ良い」
「それのどこが簡単なんだ。だいたい、悪いことって何だよ」
あまりごねるなよ、と言って紫煙を吐き出した。タチバナは、灰を床の上に落とすと、片眉を持ち上げて足を組み直した。
「ともかく。抽象的な議論をいつまでしていたって仕様がない。君は助言を聞きに来たんじゃなかったのか?わたしが言えるのは、ここまでさ。それで解決できなかったら」
できなかったら?と、腕を組んで彼女を見下ろした。しばらく沈黙した後「また、ここにおいで」と、白い息を吐き出し、うっすらと微笑んだ。弧を描いたくちびるを眺めながら、黙りこんだ。このときになってようやく、コレは彼女の専門外の出来事なのかもしれない、と思い至る。そうして、天井にぶつかって二つに分かれた紫煙を見つめながら、ため息をついた。
「だいたい、マイナス思考の塊のような僕が。偽善にも良いことばかり考えられると、思うのか?」
「それだから、わたしはいま楽しくて仕方がないのさ。蒲田伸一郎くん」
「悪趣味な女だ」吐き捨てるように言って、踵を返すと、扉に向かって歩きはじめた。もう帰るのか?と、後を追ってきたタチバナのつまらなさそうな声に、苦笑を浮かべて振り返る。
「お前の言う通り、どうしようもなくなったら、また来る」
そう言って、坂本裕次郎の横をぬって、扉を引いた。黙ったままうつむいている坂本をちら、と見て、無意識に考えてしまった。「この男はいつか女に刺されて死にそうだな」と、ハッとして額を押えたが、別段痛みが走ることもなく、また大きくなった形跡もなくて、ホッとした。薄暗い店内に、午後のやわらかな光が射しこんだ。じゃあな。と、奥に声をかけると同時に「蒲田」と、呼びとめられた。
「九段下の方に向かって坂を登ってごらん。わたしの友人が、店を開けている。彼に相談してみたら良い。参考になるかもしれない」
「彼?」
「坂島赤也という。占い師だよ」
今度は占い師か。まったく、お前の知り合いは胡散臭い連中ばかりだな、と肩をすくめて、今度こそ店を出て行った。後を引くように、高らかに鳴り響いた鈴の音を背中に、九段下の方面に向かって歩き出した。今日も、秋の日差しは温かく、風はつめたい。絶えることのない雑踏にまぎれて、小さくくしゃみをした。
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