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五
そのあと、占者の家にたどり着くまでが大変だった。
ふと目に入った喫茶店の女性が、持っていたグラスを落として割っていたり、歩道橋を歩いていた老婆が自殺しそうになったり、電線の上に止まっていた鴉が焼け焦げたり、スケボーをやっていた青年が転んで額を切ったり、ともう散々だった。ともかく、悪い思考を振り払うことに必死だった。悪いことを考えるな、と言われてからますます意識してしまって、タチバナの言葉は逆効果だった。
何か眼に入るたびに「悪いこと」を考えてしまい、そのたびに額は痛み、カビは大きくなり、悪いことは現実になってしまった。いまや、額でくすぶっていた黒いカビは、首の辺りにまで浸食してきていた。僕は、片手で顔を覆いながら、必死になって「坂島赤也」の店に向かって走る。すれ違う人が、怪訝そうな顔で、僕を見るたび「この野郎、見るな」と思い、そのたびに額が痛み、人は怪我をするか、事故にあう。嫌な気分になる。カビは大きくなる。最低の悪循環にはまりこんでいた。
息を切らしながら、坂を上がり切ると、古い日本家屋が見えてきた。黒塗りの高い塀に囲まれた家の門前には、たしかに「坂島」と言う札がかけられている。店と言うか、民家じゃないか。ふざけやがって。悪態をつきそうになったが、これ以上カビがひどくなっても困るので、できる限り物を考えないように努めて、上がった息を整えた。
すると、突然門の鍵が開く音がした。見ると、三十代後半くらいの男が門の境に立っていた。深い緑色の着物を着つけ、黒い髪の毛をゆらして、こちらを見ると、やけに整っている表情を歪めて、やわらかく微笑んだ。一瞬、女かと見間違えるほどだった。陶器のような白い肌に、黒い双眸が、やけに薄暗くかがやいている。彼が、タチバナの言っていた「サカジマ」という占者なのだろうか。言葉を発して良いのかわからず、茫然とその場に立ち尽くした。
「聞いていたより、遅かったですね」
黒髪の男は笑みを崩さずそれだけ言うと、中に入るよう、うながしてきた。敷地内に入って、ようやく息をつくことができた。それは緊張と疲労で、からからに乾いたものになっていた。
「聞いて、いた?」
前を歩く彼に向かってつぶやいた。乾いた喉の発する声は、やけに低いものになっていた。坂島は、玄関を上がるとスリッパを取り出して、すすめてきた。やけに丁寧な人だ、とこちらの方が恐縮する。
「彼女、タチバナですよ。あなたが来る前に、電話がありましてね」
「どうせ、碌なことを言わなかったんでしょう」
自棄になって言うと、彼は「ええ、まあ」と言いながら、愉快そうに笑いだした。中廊下を進みながら、奥の座敷に通されて、緋色の座布団をすすめられた。開け放されている縁側の向こうには、石造の丸池が見える。吊るされたままの風鈴は、微かに音を立てて、微風を誘う。その下では、黒猫が丸くなって眠っていた。
「いま、飲み物を用意させていますから」
そう言われて正面に向き直ると、改めて恐縮した。タチバナとは、また違った威圧感が、彼にはあった。切れ長の眼の奥で光る黒い双眸は、彼女のそれよりも、一層深い闇を映しているようだった。そのとき、ふとかゆみを覚えて、首元に手をのばす。ざらざらとした感触に、ああ、もうここまで広がってしまったのか、と嘆息した。かきむしってもカビがはげることはなく、爪の間に黒い垢が入り込むだけだった。そうして、指の間を眺めながら、ため息をついた。
なんだか、無性に惨めな想いがした。なぜだかわからないが、この家に入ってから、否、目の前の端正な顔立ちの男と対峙しながら、その生の明らかな相違を目の当たりにしている。大きな家の主で、品もある。言葉使いも、物腰も丁寧で、外貌は美しい。
片や根暗な黴男である。本を読むだけしか能が無く、暇な時は一人で川べりをぶらぶら歩き、深夜のコンビニで働き、古びた安アパートに帰るだけの日常である。ああ、なぜこうも人の生には大きな違いがあるものか。生まれはどうしようもないにせよ、一発逆転のチャンスがどこにある。どれだけ働こうと、元から金を持っている目の前の品の良い坊ちゃんに、振舞いから何から、どうして敵うと言うのだろう。ああ。ああ。途端むずむずとしてきて、かきむしる。やはり、カビがはがれることはない。
「それ以上、考えないほうが身のためですよ」
え?と、声を上げる前に、案外と近くに顔があったことに驚いた。言葉とはうらはらに、坂島は好奇心を隠しもせず、額のカビを眺めていた。「触っても良いですか、コレ」と、了解を得ることなく、もうカビに触れていた。つめたい指先がそこを引っかいたが、痛みはない。むしろ、いまはむずがゆくてたまらなかった。爪の間に入った黒いカビを眺めながら、ふうん、とうなずいていた。嫌にならないのだろうか。
「なるほど。本当に黴だ」
「だから、そう言ってるじゃないですか」
「何でしょうね。本当に根暗だから生えたのかな」
く、と歪んだくちびるは、つめたい笑みを浮かべていた。しかし、声音はやけに楽しそうだ。なるほど、失礼な人間の知り合いというのも、失礼なものなのか。初対面でここまで、遠慮のない奴と話したのは、やはりタチバナ以来である。見ると、いつの間にか座卓の上に、湯呑が二つ置いてあった。坂島は、そのうちの一つをすすめ、自分も音を立てて茶を飲み出した。しばらくの沈黙のあと、ふう、と息を吐き出した。
「じゃあ、とりあえず黴をはがしましょう」
あまりにも簡単に口にしたので、一瞬何を言われたのかわからなかった。縁側で丸くなっていた黒猫が、ゆらゆらと尻尾をゆらしながら、大きなあくびをもらした。
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