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二
しかし、裕次郎の話しで聞いていたほど、店を見つけるのには苦労しなかった。古本屋街を抜けた先にある、小さな路地を右に曲がると、あっけなく見つかった。
小じんまりとした外観、青い屋根には「筆の森」と印字されていた。店はガラス張りなので、中は見えるが薄暗い。扉には、丸いステンドグラスがはめこまれている。その下にかかっている札には、「開店」の二文字。
つまり、今日は気分がのっているのか、はたまた予約客が入っているかしているようだ。本当に、ご利益はあるのだろうか?半信半疑ながら、歩をすすめ、店の扉を引いた。案外重く、一度元に戻したばっかりに、店の鈴がうるさく鳴った。その音に、一瞬ひるんだが、ここまで来てはもう戻れまい、と扉を開けた。
突然、追い返されてはたまらないので、「ごめんください」と、小さな声でつぶやいた。すると、足元で何か小さいものが動いた。うわ、と声を上げて後ずさる。同時に、店の扉が閉まり、またうるさく鈴が鳴った。
「つかまえてくれないか」
山のように積み上がった書籍の間から、少年のように低い声がそう言った。え、と驚いて顔を上げると、山積している本の間から、鋭い眼光が二つぎょろぎょろと、こちらを見ていた。驚いてまた、わあ、と声を上げた。すると、二つの眼は薄く細められ、ため息をつかれた。
「いいから。君の足元にいるものをつかまえてくれよ」
言われて、自分の足元を見ると、黄色い毛の生えた小さな鼠が、鼻をひくひくとさせて、こちらを見上げていた。長い尻尾をたらしたまま、後足で立っている。なぜ、古本屋に鼠がいるんだ、と内心でつぶやきながら、ちょこまかと逃げようとする鼠をどうかして、つかまえた。
しゃがみこんだまま、顔だけ上げると、彼女はいつの間にか、そばに立っていた。黒い花緒の下駄を履いている。白いズボンは埃で汚れており、黒いTシャツにはなぜか、ケチャップの染みがついていた。長い黒髪を一つにまとめ、黒ぶちの眼鏡をかけている。鼻の頭には、いくらかそばかすが散らかっていた。両手で、白いゲージを抱えている。もともと入っていたものを、どうかして逃がしてしまったのだろう。
ボンヤリと彼女を眺めていると、不機嫌そうに眉をよせられた。いいから、早く中に入れてくれないか、と低くつぶやかれた。おそるおそる白いゲージの中に、鼠を入れる。
ちょろちょろと、小さなおしりを振りながら、鼠はゲージの中を、かけ回りはじめた。それを見て、ようやく安心したのか。彼女は、うっすらと笑みを浮かべて、また店の奥へと入って行った。あまりのことに、しばらく呆然としていたが、「いいから、入っておいで」と、声をかけられて立ち上がった。
本棚の間をぬって、コンクリートの床を進むと、奥は一段高くなっていた。座敷へと続いている。立てられた障子の向こうから、つん、と鼻をつくような墨の香りがした。
「靴を脱いで、こちらへおいで」
先ほどよりは、やわらかな声でそう言われ、俺は返事も曖昧にして、スニーカーを脱いだ。よく見ると、彼女が先ほどまで履いていたらしい下駄が、足元に転がっていた。座敷へと上がると、まず大量の半紙が散乱しているのが目に入った。
「まあ、場所もないだろうが、適当なところを見つけて座って」
かすかに開いていた障子の向こうから、そう言われゆっくりと戸を開ける。墨と、ほんの少しの香油の香りが強くなる。見上げると、天井近くまで続く棚の中には、何種類もの筆が立てかけられていた。それにぐるり、と四方を囲まれている。
「それには、一本一本持ち主がいるんだ」
「こんなにたくさん?」
「たくさん?これよりも多くの人間が生きているじゃない」
「そうだっけ」
白い半紙の敷きつめられた六畳のまんなかで、彼女は墨をすっていた。だけど、それは純粋な黒ではなく、ほんの少し赤い色をしている。ふと、裕次郎の「人の血で、人を呪う」と言う、からかいの言葉を思い出したが、すぐに打ち消した。なぜなら、彼女は人を呪うような、強烈な人格には見えなかったからだ。むしろ、彼女は「匂い」のようだった。いいや、それよりもずっと希薄な印象を受けた。ここに居るのに、まるで居ないかのような。そのくらい存在の灰汁が弱く、また体積が少ないように感じられるのだった。
他人を蹴落とそうとする奴からは、強烈な悪意の匂いがする。人の強烈な「匂い」って言うのは、自己主張の強さにでも、混ざっているのだろうか?だとしたら、彼女の「匂い」の薄さは、樹木の蜜よりもうすいようだった。
「こんなところに何の用?」
ハッとして顔を上げると、彼女はこちらを見ずに、白い手ぬぐいで手を拭いていた。ようやく墨をすり終わったのか、半紙の中で体を反転させて、振り返った。
「本を買いたい訳じゃないんだろう」
「どうして」
「なぜ?顔にそう書いてある」
うすく微笑んだ彼女のくちびるに、なぜだか鳥肌が立った。おかしなことを言うものだな、と眉をよせたが、無視した。しばらく、宙空を見据えて、言い訳をひねり出した。
「人から、この店のことを聞いて」
「のぞきに来たの?」突然、彼女の眼光が鋭くなった。内心でひやひやしながら、冷静な声をしぼりだした。
「まあ、そんなところ。迷惑なら帰るよ」
「迷惑って言うなら、みんな迷惑だ」
「みんなって?」
「筆のこと」
つぶやいた声は低く、見上げた先には、いくつもの筆が並んでいるようだった。筆と紙と、本に埋もれたこの店は、たしかに文字通り「筆の森」なのだった。だけど、彼女だけは森の主と言うよりは、森のなかで迷子になっているように見えた。
「君は、自分がどこから来たものかわかっているかい?」
不意にかけられた問いは、思いがけないものだった。
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