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十
「何か用かって?客に入れる電話なんか、一つしかないだろう」
受話器の向こうでは、なつかしい友人の声がした。半ば呆れたように表情を歪めながら、煙草をふかしているに違いない。ホッと息を吐き出して、その場にずるずると座り込んだ。
「どうせ新刊案内か、なんかだろう」と、息をついて苦笑した。なんかとは言うがね、この電話一本をどれだけ心待ちにしている人があることか。君はそれを知らないから、不幸だよ。と、不機嫌な声が返ってきた。タチバナはやはり、相変わらずタチバナなのだった。
つかの間、軽口を訊きあった。なんの気兼ねもなく、人と話しているのは、久しぶりのような気がする。素直に楽しかった。もっと、早くこの楽しさを知っていたら、こんなことにはならなかったのかもしれない。そう思った瞬間、心の隙間に入り込んできたつめたい闇が、そっと僕の心を震わせた。誠実さへの未練か、それとも……。
しかし、それ以上に彼女の口にした言葉に、自然黙りこんだ。
「ところで。君、それ以上広げたら、死ぬことになるよ」
一瞬、何を言われたのかわからず、息を飲んだ。しばらくしてから、しぼりだすようにつぶやいた。
「なにが?」
「黴のことだよ」
耳元で囁かれた彼女の声は、思いのほかつめたい。なぜ、そんなことを知っているんだ、と口にしそうになって、あわてて黙りこむ。あいつは、鎌をかけてきているだけかもしれない。その手に乗るものか。いいや、なんでもない。と、つぶやいて向こうの反応を待った。タチバナは相変わらず、平気な様に淡々と話す。
「今回は本当だよ。ソレ、放って置いたら死ぬよ。可哀想だと思ったから、わざわざ、坂島の店を紹介してやったのに。通うことすら止めたらしいね。君らしくもない」
小さく聞こえた笑い声に、胃の底が熱くなる。とがった爪で、引っ掻かれた後のように、小さな針が引き裂くように、彼女の悪意が、やわらかな胃の粘膜をやぶる。「僕らしい」ってのは、いったい何だ。あんな店、なんの役にも立たないのだから、通うことに意味などないではないか。
「お前はいつもそうだな」
「何が?」
心底から愉快そうに笑っている彼女の声に、眉間の皺を深くした。
「いつも、そうやって高みの見物を決め込んでいる。お前は、いっつも人を人と思わず、手のひらの上で弄んでいる」
「それを言うなら君も同じだよ。黴を使って、自分も他人も弄んでいる」
「ふざけるな」
怒気を込めてすごんだが、無駄だった。こわくない、こわくない。そう言ってタチバナは、また愉快そうな笑い声を上げたので、ついに黙りこんだ。受話器を耳に当てたまま、窓の外を眺めた。次第、かたむきはじめていた太陽を見つめ、唾を飲み込む。彼女の息遣いを、やけに近く感じた。耳たぶを撫でられているかのような感触に、自然、背中に鳥肌が立った。
「誰だって、本当の意味で、他人の痛みなど感じることはできない。君という記号は、決して誰にも理解されない、されたように思うだけさ。意味のじゃれあいに過ぎないのだから。それに気がついたから、君も自由に生きているんじゃないのか」
そう、もはや軽薄なほどに。存在を軽く扱っている。続いた彼女の言葉に、二の句が継げなくなった。
「実際、君自身はもうある行為に対して、何一つ罪悪など感じていないだろう。それでも、黴という秤は平等に善悪を裁く。でもそれは天然自然が行うものだから、どこまでも事務的な処理に過ぎない」
まるで、ずっとそばで見ていたかのような口調に、ぞっとした。未だ黙り込んでいる僕に、一言の助言も、同情的な感情も寄せず、彼女はやはり天気の話しでもするように、怜悧な距離を保つのだった。
「なあ、タチバナ」
「なんだい?」
「君は、僕を必要としているか?」
タチバナは一度黙りこんだあと、はっきりと言った。
「君が世界を必要としているのであって、世界は君を必要とはしていないんだよ。蒲田。それは、君が一番よくわかっていることじゃないのか」
「だけど、そんなの、寂しいじゃないか」
「そうだね。悲しいことだね。だけど、それでも生きねばならないんだから、そのほうがもっと辛い」
だから、何も感じないように、君たちは五感を捨てようとしているんだろう。鼻歌でも歌うような響きに、僕は汗をかいた。タチバナは何も言わずに、電話を切った。ツー、という無機質な電子音を聞きながら、途端襲いかかってきた不安に、受話器を落とした。
床にしゃがみこんだまま、頭をかいた。もう駄目だ。もうおしまいだ。乾いた声でつぶやいてみるが、答えてくれるものはいない。胡乱な意識で、ふと、暗くなってきた窓に視線を移した。硝子に映った自分の顔を見て、ぎょっとする。
両手で頬に触れてみる。ざら、とした不快な感触、しめったぬめり。大きく広がったカビは、ゆっくりと、しかし確実に全身へと広がっている。
喰われてしまう!そう思った時にはすでに遅く、鈍器で殴られたかのような鈍い痛みが、額を貫いた。手で顔をおおったまま、ごろごろと床を転げ回った。あまりの痛みに、一瞬意識を失いかけた。机の脚に小指を引っ掛け爪をはいだ。その痛みで、どうにか起き上がることだけはできた。しかし、体は重く、そこから一歩も動くことができない。息を荒くしながら、うずくまる。
叫び出すこともできず、助けを呼ぶこともできない。後悔することもできず、自然、思考は失われてゆく。放って置いたら君は死ぬよ。タチバナの不吉な声だけが、はっきりと耳に残っていた。
ああ、本当にもう駄目なのか。荒くなってゆく呼吸と、増してゆく額の痛みに、だんだん力が抜けていった。最後に目に映ったのは、透明な窓硝子に映った、一つの黒い黴の塊だった。その黴はまるで、床に染みこんだまま、じっと俺のことを見据える影のようだった。
次に目を覚ました時、俺の上に一人の女が立っていた。室内のインテリアもまったく変わっていて、俺の身体の上には新しい床が敷かれていた。それでも、丁度顔の部分には、隙間ができていたので、そこから、部屋の中をのぞくことができた。
女は美人だった。長く白い足を組んで、ソファの上に腰かけると、雑誌を開いてそれを読み始めた。しばらく、じっと眺めていると、女は俺の視線に気がついて、顔を上げた。
たすけてくれ。つぶやいてみたが、声にはならなかった。女は、眉間に皺をよせたまま「やだ、あそこなんか汚れてる」と、つぶやいただけだった。また、床を張り替えなくちゃ。その言葉に、今度は戦慄した。
了
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