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八
明け方くらいだったろうか。インターホンの呼び出し音が、静かな室内に響き渡った。ハッとして、目を覚ます。壁にかかっている時計を、見上げた。まだ、四時を回ったか、回っていないかという早い時間だった。横を見ると、酔いつぶれた裕次郎が、机につっぷしたまま寝息を立てていた。もう一度、インターホンが鳴った。起きる気配はない。
仕方がなく、のぞき穴を見に行こうと、立ち上がった。廊下に出てすぐ、電灯をつけようとした手を止めた。シン、とした静けさが、冷えた廊下から、足裏を伝って、全身に染みわたってゆくようだった。そうして、意識せずに息をひそめた。すると、またインターホンの音が響き渡った。裕次郎は起きない。背中の中心が、ぴり、としびれた。手のひらが汗で湿ってゆく。それでも自然、玄関に向かって歩き出していた。
小さなのぞき穴から明かりがもれている。不思議と興奮はしていなかった。恐怖心よりは、不安のほうが、しかしその不安よりも、好奇心のほうが上回っていた。そうして、ふと「筆の森」で言われた言葉を思い出した。
「好奇心をもつのは、良いことだよ。橋本有也。だけど、ほんの少しのベクトルと、力加減を間違えると、怪我をする。死にさえ至る。期待の先には必ず幻滅が、空想の先には現実が待っている。それを踏まえて、君はまだ問うか?それとも見るか?」
見たい、と思った。暗い廊下で立ちつくしながら、玄関扉をじっと、見据えていた。もう一度、今度はずっと近くで、インターホンの音が、鼓膜を震わせた。誰かが、この部屋の主を呼び出している。こんな朝早くから。おそらくその相手は、昨日、裕次郎の腹を刺した何者かなのである。
俺は、そっとのぞき穴を覗き込んだ。魚眼レンズになっているため、外に立っている女の顔だけが、こちらに迫って来ていた。薄暗い廊下で、壊れかけた電灯の薄い光をあびながら、浮きあがっている青白い顔には、なぜか見覚えがあった。
女の茶色い髪の毛は、櫛も通していないようだった。ぐしゃぐしゃのまま、垂らしている髪の毛にかくれて、うつむいている表情はよく見えなかった。しかし、もう一度インターホンを鳴らそうと、顔を上げた瞬間、衝撃が走った。目の下に濃い隈をきざんでいる。呼び鈴を押そうとする白い指のぶるぶると震えている様は、まったくその通りであった。下くちびるを噛みしめ、充血した眼をむき出しにして、焦慮に染まったその表情は、「筆の森」で見た時よりも、よほどひどいものだった。
そうだ。彼女は、「筆の森」で、タチバナに男の髪の毛を渡して、人の心の中を覗き込んだ、という女だった。そうして、おそらく勝手に裕次郎の心の中をのぞきこみ、感情のままに裕次郎を刺し、いま扉一枚をへだてて、目の前に立っている。
まるで、幽霊のような女だ。恐怖よりも先に嫌悪が、不安よりも先に失望が、失望よりも先に憐憫が、俺の全身をおおい、皮膚をしびれさせた。その時だった、焦慮と激動に支配された女は、ついに扉を叩き出した。
ドン、と響いた鈍い音が、振動とともに、俺の指を震わせた。ついに首をひっこめて、顔を引いた。二三歩、後退したが、部屋へとは引き返さなかった。どうしたら良いのか、具体的な対応策は思い浮かばなかったが、ともかくその場を動くことができなかった。
すると、突然のぞき穴から射していた光が、遮られた。扉を見据えたまま、息を飲んだ。おそらく、女はこちらを覗き込んでいる。もちろん、外からこちらを見ることなど、できない。わかっていても、気味が悪かった。
「裕ちゃん、裕ちゃん、ゆうちゃん」
か細い声が、何度も裕次郎を呼んだ。その瞬間、俺はほとんど、反射的に扉を蹴り返していた。明け方のアパートは静かで、思いのほか、その音は大きく響き渡った。扉の向こうは静かだった。女は、声も上げなければ、インターホンも鳴らさなかった。しばらくして、廊下を歩いて行く静かな足音だけが聞こえてきた。
「すまん」
背後から突然、声をかけられて、肩が震えた。ふり返ると、裕次郎が襖の前に立って、こちらをじっと見つめていた。いつから、そこに居たのだろう。そんなことを思ったが、何も言わずに、首だけ軽くかしげて見せた。
「馬鹿な女だよな」裕次郎は、ほとんど独り言のようにつぶやいていた。その言葉にムッとして、俺はようやく足を動かすことができた。裕次郎のそばを通り抜けて、居間に入ると、畳の上に腰を下ろした。なんだか、どっと疲れたような気がした。
「馬鹿はお前だろ」
小さくつぶやくように言うと、寝転んだ。なぜだ?と、いう裕次郎の震えた声に、返事もせず瞼を閉じる。お前らの事情なんか知るものか。馬鹿馬鹿しい。ほとんど自棄のように、眠りこんだ。そうして、なぜか、悲しい夢を見た。内容は、覚えていない。だけど、あんまり悲しかったから。俺は子供のように泣いてしまった。
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