筆の森、黴男(逢魔伝番外編)

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    九  それ以来、裕次郎とは疎遠になった。 聞いた話では、女をとっかえひっかえしているうちに、いまは美人局と関係を持ってしまったらしく、相手側の男に、金を絞り取られそうになっているらしい。お前も、気をつけたほうがいいぞ、とそう声をかけてきたのは、一年先輩の秀雄さんだった。俺は、適当に相槌を打って、そのこともすっかり忘れてしまった。 次に「筆の森」に行ったのは、紅葉もすっかり終わっているころだった。枯草の舞う古本屋街を歩きながら、小さな路地を曲った先にある、青い屋根の店の前で、立ち止まった。 ステンドグラスのはめこまれている扉を引いて、中に入ると、珍しくタチバナが、店内に顔を出していた。出していた、と言っても、山積している本の間からだ。うつむいている顔の先には、難しそうな厚い本が置かれており、白い指先がページを繰ったところだった。  「君は文字が読めないのか?」  不機嫌そうにつぶやかれた言葉に、ふりかえった。タチバナは、黒ぶちの眼鏡をかけて、分厚い本の上に視線を落としたまま、またページを繰った。なぜ。と、つぶやいてから、勝手に棚にある本を引っ張り出すと、彼女の真似をしてページをめくった。何がなんだか、ちんぷんかんぷんだ。  「今日は、閉店の札がかかっていたじゃないか」  「そうだっけ。でも、開いているじゃないか」  そう言って、微笑を浮かべると、タチバナは愉快そうに笑って「君もついに、屁理屈を言うようになったか」と、言って本を閉じた。慣れた手つきで、煙草を取り出すと、火をつけた。こんなに燃えやすいものが多いところで、火を使うなよ。と、苦笑を浮かべる。  「君も吸うか?」と、差し出されたので、断った。考えてみると、彼女は平気そうだが、俺の場合、うっかり火を落としてしまいそうだった。立ち上る紫煙が、低い天井にぶつかって、二つに分かれた。かすかに降りてきたマルボロの香りが、目に染みた。  「なぜ、人の心をのぞくんだ」  片手で煙を払いながら、唐突な質問をしかけた。タチバナは驚きもせず、口元だけで笑うと、煙を深く吸い込んだ。薄暗い店内で、煙草の先だけが赤く光っていた。 「なぜってこともないよ」淡々と答えた。煙を吐き出すと、肩にかかる黒髪をいじくった。灰を落として、くわえなおすと、もう一度深く煙を吸い込んだ。  「のぞくのは、わたしじゃない。君たちが知りたがるんだろう」  「そんなことは、」ない、と言いきれなかった。人の心ではないが、俺も立派に好奇心を持って、それを満たしていた。命令を受けているように。障子の間から、のぞき穴の向こうから、目の前につきつけられた隙間から、境界の向こうを、しっかりと見つめていた。 「違う?知らなけりゃ良いものを、好んで知りたがる。そうして、勝手に失望している。君らは、ずいぶん身勝手なくせに、自分を棚に上げて、すぐ人のせいにしたがる。弱いからね」 あまりの言い草に、ムッとした。くちびるを曲げて、吐き捨てるようにして言った。 「だけど、人の弱さにつけこんで、あんたのほうがよほどひどいぜ」  「なぜ?」 タチバナは、頬づえをついて笑みを浮かべると、じっとこちらを見据えてきた。  「客であれば、わたしは依頼を断れない」  「嫌なら断ればいい」  「商売だからね」  眉間に皺をよせて見たが、タチバナは相変わらず平然と、笑みを浮かべて煙を呑んでいた。  「心を知ることができれば、支配できると考えるやつは山ほどいる。だから、一つ一つの選択は、君たちにとって自由なものであるように見える」  「だけど、あんたは俺のことを自由だと」  「ああ、言った。君は自由さ。だけど、限りはある」  「なんだそれ」不服そうに眉をひそめたが、タチバナはやわらかな笑みを崩さない。  「限りがあるから、君は君でいられる。石は、ただ重力に従って落ちるだけだ。終わりが来れば、また地面の上で転がる」  「意味がわからない」  「スピノザくらい読みたまえ」そうしてタチバナは、分厚い本を閉じた。  「鳥の目を意識したことはあるかい?」と、聞かれて、俺は首を横に振った。そんなことにも頓着せず、タチバナは淡々と話しを続ける。  「発展と進化が、全体を見渡すことのできる視点を手に入れた。近くで見れば、大きな差があるようだが、遠くから見たら同じ点に過ぎない。だけど、遠すぎても近すぎても、象そのものは見えないんだよ。鼻が長くて、体が大きくて、尻尾がついていて、という、観察対象に対する記述とは、丁度良い距離をとることで、はじめて描出可能な現実なのさ。だけど、盲にとって、象の全体は触った部分、鼻であれ、尻尾であれ、皮膚であれ、その触れた部分だけだ。それだって象のすべてを物語っている。なぜか、わかるかい?」  ほとんど、何の話をしているのか、さっぱりわからなかった。だけど、タチバナの声は、これまでにないほど真剣だった。だから、黙って話しを聞いていた。  「まなざしはすべてじゃないって、ことさ。見ることさえも、触ることと同じように、部分にすぎない。だけど、君たちはすべてだと思っている。  だから、いつも窮屈なのさ。視界がいかに高くなろうと、低くなろうと、いつまでも隣にある視線ばかり、気にして生きている。  まるで、それが人間精神の美徳であるかのように。まなざしの牢獄に閉じ込められ、あらゆる言動は制限を受け、自らで自らを監視し、管理することによってでしか、生きてはゆけなくなった。まるで、自立が美徳であるかのように。なあ、橋本有也。君たちはどうしていつまでも、不安そうなんだ?」  「そんなの、自由だからじゃないのか」  「へえ」このときになって、タチバナは初めて意外そうな顔をした。「自由だと、なぜ不安なんだ」  頭をかきながら、しばらく黙っていた。ステンドグラスの窓からさし込む、斜陽に照らされて、店内は一気に橙の色に染まった。  「自由ってのは、先の見えないマラソンみたいだからさ。地平が見えないと、どこまで歩けばいいのか、わからないじゃないか。それなのに、前から後ろから急かされて、仕方なく走ってる。みんなで、一緒に。てんでバラバラの方向にね。後は前の真似をして、前は前の真似をしてる。だから、どいつもこいつも、走りたい方向がわからないんだよ」  「君はわかるのか?」  「さあね。そもそも走ってないのかも」  彼女は、片眉を持ち上げると、肩をゆらしながら笑っていた。まあ、それでもいいか。と、言って話しを打ちやった。お前だって、十分いい加減じゃないか。そう思ったが、口には出さなかった。うつむいていた顔を上げて、まっすぐにタチバナを見据えた。  「心を知ったら、何か変わるのか」  「君はどうだ?」す、っと煙草の先を向けられる。立ち上る紫煙に隠れて、表情は見えない。だけど、おそらく微笑を浮かべているのだろう。「何か変わったか?」  「わからない」  素直にそれだけ答えた。まだ何か言うと思っているのか、タチバナは笑みを浮かべたまま、黙っていた。しばらく沈黙したあと、自棄になってつぶやいた。  「男も女も、醜いよ」  吐き出すように言った台詞に、やはりタチバナは大いに笑った。ミニクイ、だってさ。愉快そうに腹を抱えて、しばらく笑い続けると、煙草を灰皿の上で揉み消した。橋本有也くん。と、呼ぶ声があまりにやわらかなものだから、つい顔を上げてしまった。彼女は眼鏡の向こうで、優しく微笑んだ。  「生きるに、綺麗も醜いもないさ。上も下もないようにね」  「だけど、嫌になるだろ。そんなの」  「じゃあ、君は?」  「俺だって汚いよ」  タチバナは心底から、楽しそうに笑っていた。まるで、新しい玩具でも見つけた子供のように、その黒い双眸はきらきらと輝いていた。そんなこと、俺のような、何も知らない学生に聞かなくたって、きっと知っているはずだ。知っているのに、あえて問うてくる。その純粋な好奇心が、冷たい針のように、首元につきつけられた。言葉が、俺を見ている。くちびるから発する、あらゆる言葉が、俺のすべてを解剖してゆく。 そのような切っ先の鋭さを、あらゆるところで向けあっている。タチバナは、以前「君は優しい人だ」と言ったが、それだってまったくの嘘だ。俺だって、その怜悧な切っ先を、あらゆる人間につきつけている。その瞬間のまなざしは、どれだけ人の心を凝固させているのか。タチバナの言うやさしさなど、すぐにめくれる、透明なベールに過ぎない。  「汚くても、醜くても、君は平気なんだろう」  「そんなこと、」  「平気じゃなかったら、ここには来られないはずさ」  その冷水のような言葉は俺の皮膚をすべって、床の上に落ちた。それを踏みつけることも、無視することもできなかった。まったく、彼女の言う通りなのだ。嫌だ、嫌だと思いながら、やはり平気なのだ。女が裕次郎の心をのぞこうと、裕次郎が刺されようと、女が泣かされようと、裕次郎が友人ではなくなろうと、俺は平気だった。だから、タチバナも平気なのだ。  俺を追いつめようと、軽蔑しようと、玩具にしようと、同情しない。罵倒しても、されても、きっと彼女はいつまでも平気なのだろう。きっと、あらゆる出来事の中心に行こうと、ずっとなんともない。あたりまえに微笑を浮かべて、するり、と抜けだして行くだけ。「人は、人は」と、言う。彼女はやはり人ではない、何物かであり、なにものでもない。そのあまりの堅固さと、儚さに、涙が落ちそうになった。  「橋本有也」と名を呼ばれ、顔を上げた。やはりタチバナは微笑んでいた。その形のやわらかさにつられて、ふっ、と笑ってしまった。  「おいで。君の見た夢を語ってあげる」  「夢?」  「悲しい夢のつづきさ」  どうして知っているんだ。そう聞く前に、タチバナはいなくなっていた。また例の部屋へと、消えてしまったのか。障子の向こうから「いいから、早くおいで」と、相変わらず人を急かしてくる。 奥へと続く、薄暗い廊下を眺めながら、孤独な筆のことを思い出した。その一つ一つが、棚の中でひっそりと並んでいる。無関心に。だけど、ずっと近い距離で、いつまでも知らないフリをして、眠っている。持ち主の知らないところで、ベールをはがし、素顔を現し、語っている。断罪も受けず、当然なように、「筆の森」はするどい切っ先を、つきつけ続ける。  「俺たちは、どこへ行こうとしているのだろう」  俺の小さなつぶやきに、答えてくれる者はなかった。落日はもうすぐそこまで迫ってきている。
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