1976年秋

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「ホックが」 夕介は懇願するように、龍彦の顔を見上げた。 「…うまく掛からないんだ」 手が少し震えていた。 龍彦は、その襟に手を伸ばした。また、何か黒い雲のようなものが胸に拡がった。 『これ、誰かに外されたの』 そう聞こうとして、言葉を呑み込む。 夕介のそり返った睫毛に、触れるかと思うほど顔を近付けると、襟のホックを掛けてやり、そのまま龍彦は、その肩に手を置いた。 夕介は小さくため息をついた。 「ありがとう」 「──水野さんと、すれ違ったよ」 「えっ──」 「何してたの、ここで」 龍彦の問いには、刺刺しさがあった。夕介は無言で俯いた。 その沈黙が龍彦を不安にさせた。 それを察したかのように夕介が口を開く。 「言ったんだ──」 「何を」 「好きな人がいる、って」 「夕介、それって──」 「龍彦のことだよ。だからもう水野先輩とは、会わないから」 許して、と言っているように聞こえた。そして夕介は顔を上向け、自分から龍彦の唇に、そっと触れてきた。 『きっと、水野先輩にキスされたんだ』と、龍彦は思った。 それ以上のことを、水野はしようとしたのかもしれない。 だから夕介は、自分に許しを乞おうとしている。 その事実を上書きしたい気持ちで、龍彦は夢中で夕介の肩を強く抱き寄せた。 学生服のカラーが当たって、痛いほどだった。 窓の外は、夕闇が迫っていた。 暗くなる教室の中で、二人はそうして唇を重ね合わせていた……
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