1976年春

3/3
前へ
/12ページ
次へ
何度目かの木曜日の事だった。 音楽の授業のあと、夕介は皆に遅れて、最後にひとりで階段を上がってきて、そこに立っていた龍彦と、正面から顔を合わせたのだった。 夕介は龍彦を見ると、口元に小さい笑みを浮かべた。 その微笑みに誘われるように、口を切ったのは龍彦だった。 「音楽の授業、終わった?」 頷いた夕介の黒い瞳が、目の前にあった。長い睫毛に見とれていると、話しかけられた。 「君、何組?」 「8組、ここだよ」 龍彦は入口を目で指した。 「ああ、だからいつもここにいるんだ。名前、何て言うの?」 「日野、日野龍彦」 「僕は──」 「知ってる、野々宮くんだろう。野々宮夕介って、ホラ、そこに書いてある」 龍彦はすでに名前を知っていたが、夕介が胸に抱えていた教科書を、わざと指差した。名前がフルネームで書かれていた。   「日野くん、部活、もうどこか入った?」 「まだ入ってない。君は?」 「剣道部」 「へぇ──練習厳しくない?」 「まあね、でも大丈夫だよ。」 夕介は、龍彦の顔を見上げて、ちょっといたずらっぽく笑った。龍彦の方が数センチばかり背が高かった。 そして、じゃあねと手を振って、その場を離れた。 夕介の方から名前を尋ねた── 何の部活をやっているかまで、知りたがった──彼の見せた意外な親密さに、龍彦は内心胸を躍らせていた。 その日から、ある確信を持って、龍彦は、夕介を追うようになるのだった…… 自分は中学生の頃から、同世代の男の子にばかり惹かれる事を自覚していた。回りの友達が女の子の話をしても、興味が持てない。 夕介に出逢ったとき、引き寄せられたのは、その美しさのせいだけではない。多分、同類だと直感したからだった。それを確信したのは、この時だった。 だから余計、もっと親しくなりたい、と思った。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加