103人が本棚に入れています
本棚に追加
第10話 最初で最後のキス
独り立ちして群れを離れることになった親友に渡した猫笛が吹かれ駆けつけてみると、群れが大きく凶暴そうな虎に狙われているという。「クロは帰れ」と主張する親友に、自分も一緒に戦うと言い張り、二人はともに虎と戦うことにした。
虎は、銀斗の十倍、クロの百倍の体重がある。手足も太い。あの手足で掴まれたら、イエネコの自分などひとたまりもないだろう。
だが、身体をぴたりと寄せている親友の狼獣人・銀斗は、鼓動と呼吸は激しくなってこそいるが、決して震えてはいない。勇敢な親友の足を引っ張るわけにはいかない。クロは、自分の全身を血が駆け巡り、一回り身体が大きくなる感覚を味わった。
「……今だ。行くぞ、クロ」
銀斗の声は冷静だ。
クロは無言で素早く立ち上がり、足音を立てずに虎に忍び寄る。最初の一撃は、クロが仕掛けることになっている。全身の毛を逆立てながら、次第にスピードを上げて虎に近づいた。
「シャーッ!」
クロは、虎の目元を狙って鋭い爪をむき出しにし、草むらから飛び掛かった。虎の目にダメージを与え、その後の攻撃を封じる狙いだった。あいにく、クロの爪は虎の右目を外した。反射的に虎が瞼を閉じたせいで、直接目に傷を付けることはできなかったが、瞼には鋭い爪が突き刺さり、引っ掻き傷も付けることができた。
全く予想外の攻撃に、一瞬虎は面食らった様子だったが、襲い掛かってきたのが小柄な若いイエネコだということに気づき、顔を歪ませて咆哮を上げた。
クロも、全く怯んでいないことを示すため、全身の毛を逆立てて正面から虎を睨み返し威嚇の声をあげる。しかし、戦いは別だ。まともに正面からぶつかって勝ち目のある相手ではないことは分かっている。
クロは素早く近くの木に登った。同じネコ科の虎も、すぐさま木に登ってついてくる。木登りなら俺だって得意だと言わんばかりに。クロは枝に飛び移り、虎を挑発する。もし虎が冷静ならば、クロの百倍ある自分の体重を支えることなどできない、頼りない枝だと気づいたはずだが、文字通り面子に傷を付けられた虎は怒り狂っている。枝をよく確かめることなく、クロを追いかけてその前足をクロに掛けようとした。
その瞬間、華奢な枝は折れ、虎とクロは地面に振り落とされた。事前に予想していたクロは、ひらりと身体を回転させて地面に見事に着地したが、虎は背中を地面に打ち付けた。
すかさず、草むらから銀斗が走り出る。地面に投げ出された虎の後ろ足に、その強い顎で全力で噛み付いた。バキバキと骨が折れる音がする。
「ギャーッ!!」
狼の顎の力は、獲物となる動物の骨を粉砕するほど強い。後ろ足を銀斗に齧られている虎が、前足で反撃しようとすると、今度はクロが、さっき攻撃したのとは反対の、虎の左目に飛び掛かる。しかしさすがに二回目なので、今度は目の下に引っ掻き傷を付けるだけだった。左目は切れた瞼から垂れた血が目に入り、効かないはずだ。銀斗の噛み付きで右の後ろ足は骨折しているはずだから、素早く走れない。だが、虎は不敵な笑みを浮かべて、二人をねめつける。
「……狼とイエネコか。しかも、どっちもまだ若い。そんなお前らが、若虎や若狼をさんざ食い殺してきた俺様を襲ってくるとはな。そんなに美味い餌が、この先にあるんだな? なおのこと、お前らを倒したくなった」
二人は全力で戦った。しかし、長年多くの肉食獣を屠ってきた成熟した虎は、生死を掛けた戦いというものを熟知している。小柄で細く、体力のないクロを集中的に追い詰め、へばらせようとしてきた。その逞しい前足でクロを横殴りにして引き倒し、更に鋭い爪を突き刺そうとしてきた。
(……あ、僕はこれで死ぬのか。母さん、ごめんね。せっかくくれた生命なのに。でも僕、親友と、親友にとって大切な仲間を守って最後まで戦ったよ)
瞼を閉じようとした瞬間、激しい衝撃が走った。銀斗が、クロを鼻先で弾き飛ばしたのだ。虎の鋭い爪は、銀斗の肩に突き刺さった。
「ヴォオオオオ!」
銀斗は痛みに呻きながらも、ゴロゴロと身体を回転させ、虎の手の届かないところにどうにか逃げ出した。
「シャーーーー!!」
クロの体力も、とっくに限界を超えていたが、血まみれになった親友の姿に再び頭に血が上る。瞬時に体勢を立て直し、振り回される虎の前腕をかいくぐり、細くて鋭い爪を右目に突き刺した。
「グワァアアアア!」
虎は、顔を振り回し、クロを吹き飛ばす。
もはや虎は完全に戦意を喪い、ピクリとも動かない。両目が効かない野生動物が生き延びられるほど、この世は甘くない。遠くない自分の死を悟ったのだろう。
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
再び地面に叩きつけられたクロは、浅い呼吸を繰り返す。肋が痛い。骨が折れ、体内に刺さっているのかもしれない。
(でも、呼吸ができるんだから、肺は大丈夫だ……)
全身打撲痛で、常識的にはまともに動ける状態ではないのだが、親友が気になるクロは、どうにか頭をもたげた。
銀斗は、だらりと四肢を地面に投げ出して静かに横たわっていた。美しいシルバーの毛並みは、赤黒い血に塗れ、既に固まり始めている。クロは少しでも動きやすいようにと、渾身の力をふり絞って人型に戻り、腹這いで銀斗に近寄った。
「はあ、はあ、はあ、銀斗……っ。銀斗……」
顔を覗き込み、乾いた鼻先を舐めてやると、ようやくうっすらと銀斗は目を開けた。ひどくだるそうだ。
……いや。
銀斗は、既に虫の息だった。
「クロ……。お前は大丈夫か……?」
「うん。銀斗っ、ごめん……。結局、僕が足手まといになっちゃって」
クロは、大粒の涙をボロボロと銀斗の顔に降らせながら、顔を歪ませて謝った。銀斗は、弱弱しくかぶりを振る。
「いや、良いんだ。俺だけだったら、きっと、もっと速攻でやられてたさ。それに、群れもクロも守ることができたんだから」
銀斗は、うっ、と呻いて、獣人の姿に戻った。涙に濡れたクロの頬を優しく拭った指先を、そのまま唇に押し当てた。
「群れの皆は逃げられたかな……。独り立ちしたばっかりなのに、もうやられちゃうなんて、情けないや。まぁ、俺が死んでも、きっと護狼が立派に群れを率いてくれるだろうから大丈夫かな……。
……俺、ひとつだけ心残りは、やっぱりクロのことだな。クロにとって大切な場所だから、簡単に許してもらえないのは分かってるけど……、せめて一生に一度だけでも、クロと接吻したかったな。……愛してるよ、クロ」
クロは、彼の言葉を聞く前に、猫獣人が生涯に一度だけ使える魔法を使うことを――我が身を引き換えに銀斗を救うことを――決意していた。
「銀斗……。僕も君のこと愛してるよ。でも、僕は猫だし雄だから、君の番にはなれないと思って、諦めようと思ってたんだ。君みたいな勇敢で優しいアルファなら、きっと立派に群れを導くよ。だから、僕の愛を、命を受け取って……」
呪文を唱え、クロはそっと銀斗に口づけた。
世界一愛している銀斗との、最初で最後の接吻。彼の唇は少しカサカサしていて、血と涙の味がした。
-------------------------------
著者・羽多奈緒です。
いよいよ明日が最終話です。20時にお待ちしております!
最初のコメントを投稿しよう!