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第9話 群れに迫る危機
「おーい、クロ。茶でも飲まんか」
保行が気を遣って声を掛けても、クロは振り向きもせず声も発さず、背中を丸めて俯いて、かすかにかぶりを振るだけ。そんな彼の後ろ姿に、思わず保行も溜め息を漏らした。
銀斗が群れを離れてからというもの、クロは全く元気がない。
「こんにちはー。保行おじさん、クロ。こないだ捕まえたヤギの乳で作った酪と醍醐を持ってきたよ」
酪はバター、醍醐はチーズのような食べ物だ。護狼は、何やかんや理由を付けて手土産を持って定期的に保行の家を訪れ、クロを見守っている。
「おー、護狼。いつも悪いな」
「へへ、お互い様ってことだよ。僕らが怪我や病気した時は、世話になってるからね。……クーロー。ほら。醍醐好きだろ?」
ひらひらと薄く小さく切った醍醐を、クロの鼻先でひらつかせる。傷心とは言え、まだまだ育ち盛りの若猫だ。途端にクロは瞳孔を大きくし、鼻をひく付かせて目で醍醐を追う。
「ふふふ、クロ。もう涎垂れてるよ」
可愛くて堪らないとばかりに目を細め、愛おしげにクロを見つめながら、護狼はクロの口元に醍醐を近づける。クロは、すかさず、パクッと護狼の指ごと醍醐を口に運ぶ。
「にゃ……むにゃ。うーん、狼獣人の醍醐はやっぱりおいしいね!」
醍醐を食べつくした後も、まだ指に残っている匂いと味を舐め取ろうと、クロは護狼の指に舌を這わせ、しゃぶり尽くそうとする。ようやく指をしゃぶり尽くしたと、今度は自分の唇をペロペロと舐める。狼獣人の間ではプレイボーイとして知られる護狼も、純真なクロの大胆な行動に、思わず頬を赤らめ、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「護狼、すまんな。クロのコレは、素でやってることだで」
こそっと、クロに聞こえないように保行は護狼に耳打ちする。
醍醐で少し元気を取り戻したのも束の間のこと。銀斗そっくりの護狼の姿を見ると、またしても大好きな幼馴染を思い出し、クロの大きな緑色の瞳には、うっすらと涙が膜を張り始めた。護狼は静かに立ち上がり、保行の家を辞した。
月を見れば、「夜道が怖い」と言って銀斗の背中に載せてもらったことを思い出す。
薔薇を見れば、何も分からぬ子猫の頃、匂いに惹かれて突っ込んで棘を手のひらに刺してしまい、時間をかけて銀斗が抜いてくれたことを思い出す。
つまりはクロの人生は、常に銀斗と共にあったのだ。今、クロは胸の奥にぽっかりと大きな穴が開いたような痛みを抱えていた。
そんなある日、クロは猫笛の音を聞きつけた。
(間違いない。これは、僕が銀斗にあげた笛の音だ!)
あの誇り高い幼馴染が、こんなに早く自分を呼ぶなんて余程のことだ。何か危機的なことが起きているに違いない。
逸る気持ちを抑え、保行には心の中で詫びながら、手早く旅装束を整える。着物の裾をからげ、股引と脚絆を身に着け、足袋に草鞋を身に着ける。保存の効く食べ物も笹の葉に包み、風呂敷に包んで背中に背負う。
銀斗と出会えたのは、碌に睡眠もとらずに全力でクロが駆けた後のことだった。
「こんなにすぐ呼んじゃって悪かったな、クロ。
……実は、群れに危険が迫っている。デカい虎が、俺たちの群れを狙っている。群れの縄張りからの獲物で満足すればいいんだが……。すごくデカくて、凶暴そうな奴なんだ。多分、群れの仲間も襲われると思う。俺がなるべく虎を引き留めるから、みんなに逃げろと伝えてくれ」
クロは、胸いっぱいに息を吸い込み、叫んだ。
「ミドリーーーー!!!!」
相棒・アオバトのミドリを呼び寄せ、クロは銀斗からの伝言を伝えた。少し酪を与えて、群れへ向けてミドリを放つ。
「僕も、銀斗と一緒に戦うよ!」
「バカ! 相手は虎だぞ? お前みたいなイエネコが敵う相手じゃない」
銀斗は苛つき、クロの細い肩を掴んで前後に揺さぶった。
「でも、それを言ったら、銀斗だって! いくら銀斗が強くても、虎のほうが大きいじゃない! 危なくて、一人でなんか戦わせられないよ!」
銀斗がどんなに脅しても凄んでも、頑としてクロは引かなかった。
「虎もネコ科だけど、身体の軽さや柔らかさでは、イエネコは虎に負けないよ。細くて小さいけど、爪も僕のほうが鋭いはず。だから、正面切ってぶつかったら勝てないけど、隙を見て懐に飛び込んで、急所を爪で傷付けてすぐ逃げるとか。そういう攻撃でなら、相手を攪乱できると思うんだ。僕が虎の注意をひきつけてる間に、銀斗は、虎の足とかに噛み付いて」
銀斗は深く溜め息をついた。
「クロ……。群れと俺のことを心配してくれることには、すごく感謝してる。ホントにありがとう。だけど、俺、やっぱりお前を危険に晒したくはないんだ。お前、虎の大きさ知らないだろ? アイツ、二百キロ以上あるぞ!? 猫の時のお前の、百倍はあるだろ」
クロは怯まない。
「だったら、銀斗の十倍はあるじゃん! そんな大型の虎に銀斗だけで立ち向かうなんて、僕だって絶対嫌だよ! 僕たち生まれた頃からの親友じゃんか。危険だからこそ、戦う時は一緒だろ!?」
銀斗は、唇を噛みしめ、目を泳がせている。必死に考えているのだろう。
「……分かった。俺たちは二人で一組だ。お互いの動きを見ながら、虎に近づきすぎず、遠くから攻撃を仕掛けよう」
二人は、虎に気づかれないよう風上を巧みに避け、その動きを見張れるよう、山の上側に陣取った。銀斗が言っていたように、立派な雄の虎は、森の王者のような風格で堂々と歩いていく。
クロは、銀斗の攻撃開始の合図を待つ。バクバクと、早く激しく胸が鳴っている。それが自分のものなのか、身をぴたり寄せあっている銀斗のものなのか、もはや分からないほどクロは緊張していた。
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著者・羽多奈緒です。
いつもお読みくださり、まことにありがとうございます!
本作は、いよいよ後二話で完結予定です。銀斗とクロは、仲間たちを守れるのか、二人の両片想いはどうなるのか……。ぜひ、最後まで一緒に応援してあげてください。
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