第1話 若者の旅立ち

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第1話 若者の旅立ち

 まだ肌寒さの残る春の夜。籠屋(かごや)(やま)の野原では、狼獣人たちが若い雄狼・銀斗(ぎんと)を囲んで宴を繰り広げている。広い土地を縄張りとして駆け巡る狼獣人たちは、身体が大きいだけでなく、しっかりした長い手足が特長だ。それは、ケモ耳・尻尾付きの人型の時も変わらない。その大人の雄が皆集まっているのだから、ちょっとした迫力だ。 「こないだまで、あんなにちっちゃかった銀斗が、いよいよ独り立ちとはなぁ。早いもんだ」 「良い男になれよ。群れ中の雌どもが銀斗に発情しちゃうぐらいにな」 「……おじさん。明日の朝発つつもりなのに、こんなに飲まされたんじゃ、二日酔いになりそうだよ」  先輩狼獣人たちは銀斗の肩を抱き、手にした器からこぼれんばかりに次々に酒を注ぐ。普段は群れで暮らす狼が、いくら若くて強いと言っても、たった一匹で外の世界に出ていくのだ。戻って来れないことも多々ある。主役の銀斗も先輩たちの気持ちが分かるだけに、微苦笑しながらも酒を断ることはない。 「絶対帰って来いよ! 銀斗」  雄狼獣人たちが男泣きしているかと思えば、雌狼獣人たちは遠巻きに、目に涙を一杯にためて先輩に取り囲まれる銀斗を切なげに見つめている。 「そうよ! あたし、銀斗のお嫁さんにしてもらうのが子どもの頃からの夢なんだから」  雌狼獣人の中でも身体つきがしっかりしていて一番の美人が、雄狼獣人をかき分けて銀斗にしがみつく。 「あー、ずるい! ねえ銀斗、あたしも!」  今度は雌狼獣人たちが次々に銀斗にしがみつく。彼の名にふさわしいプラチナカラーの髪は、たてがみのように風になびく。藍色に近い碧眼(へきがん)は、先ほどからチラチラと誰かを探すように彷徨っている。  物陰からひっそりと宴を見守っている、一人の雄の猫獣人がいた。銀斗とは乳離れ前からの親友で幼馴染のクロだ。イエネコのクロは、狼獣人に比べると一回り以上身体つきが小さく華奢だ。年も一歳下だから、まだ顔立ちには幼さが残っていて少年の風情だ。黒猫らしい艶のある黒髪。丸い頬が童顔を強調している。困ったような八の字眉の下には、美しい緑色の瞳が光っている。狼獣人の縄張りを脅かす存在ではないから、普段は銀斗以外の狼獣人とも親しく付き合っている。しかし、今夜は狼獣人たちの子別れの儀式だ。この場には籠屋山に住む他の数多の種類の獣人は、一人もいない。この儀式の狼獣人にとっての厳然たる重要性を物語っている。  銀斗との別れを惜しむ宴に混じれない寂しさを振り払うように、クロはかぶりを振る。暗闇に紛れ足音を忍ばせるため、黒猫の姿にその身を変え、そうっと宴の場を立ち去った。  クロの飼い主、もとい親代わりの薬師(くすし)伊賀(いがの)保行(やすゆき)の家の門をくぐると、クロは人型に戻る。 「おかえり、クロ。今日は銀斗の壮行会だったんだろう? もう帰って来て良かったのか?」  銀斗との別れは家族を奪われるような苦しさだと見抜いているかのように、保行の瞳には、労わりが浮かんでいる。無言の優しさに余計に胸が抉られる。クロは必死に目に力を入れ、涙がこぼれ落ちるのを堪えて無言で頷き、耳と尻尾を垂れて風呂へ向かう。保行の生活は質素倹約が行き届いていたが、唯一の贅沢が風呂で、ほぼ毎日風呂を沸かすのだ。熱いのが苦手なクロには、残り湯がちょうど良い。涙で汚れてしょっぱい頬も洗い流してしまおう。  身体が温まったら気分が落ち着くのではないかと思ったが、むしろ身体に意識が向かなくなる分、寂しさや切なさが増すだけだった。寝間着に着替え、床についても、目は冴える一方だ。 (そうだ! どうせ眠れないなら、ハナミズキの丘に行ってみよう。ちょうど今は花盛りのはずだし)  寝間着の上から綿入れを羽織り、クロは静かに家を抜け出した。  白と薄い紅色のハナミズキの咲き誇る丘は、銀斗とクロが二人だけの秘密基地を作った思い出の場所でもある。月明りに照らされた道を歩きながら、一歩一歩、銀斗との別れを噛み締め、一度引っ込んだ涙が再び溢れてくるのを綿入れの袖で拭う。茂みの中のお気に入りの場所に座ろうと木をかき分けると、ハッと息を呑む音がした。 「「なんでこんな日に、ここにいるんだよ」」  クロと銀斗は声を揃えて同じ疑問を投げかけ、決まり悪げに互いに視線を逸らした。 「てっきり今夜は一晩中、仲間たちと別れを惜しんでいるのかと思ってたよ」 「おっさんたち、寝ちゃったんだよ。……しばらく帰って来れそうにないし、最後にここの景色を見ておきたかったし」 「ハナミズキ、今が盛りだしね」  一息ついて、一段声を低めて銀斗がクロを責めるように呟いた。 「……なんで、今日、クロは来てくれなかったんだよ」  白と桃色の花に囲まれた銀斗は視線を逸らし、不貞腐(ふてくさ)れたように口をへの字に歪めている。 「僕だって行きたかったよ! でも、子別れの儀式は、狼獣人にとって大事なしきたりだから、他の獣人は行かない方が良いって。保行さんが言ってた」 「クロは、赤ん坊の頃から俺の友達なんだから、他の獣人とは訳が違うだろ」  クロの本心を確かめて機嫌を直したのか、銀斗はやっと振り向いてくれた。子猫だったクロに向けるような優しい微笑を浮かべている。 「初めて会った時のクロ、人型に戻る力もなくて、やせっぽちでぶるぶる震える子猫だったもんなぁ。狼たちに小突かれて、おしっこちびっちゃってさ」  クスクス思い出し笑いをする銀斗に、クロは、頬を真っ赤にして両手を振り回す。 「そ、そんな赤ちゃんの頃の話するの、やめてよ!」  銀斗は、振り回したクロの小さな拳を、大きな手のひらで包み込む。イエネコ獣人のクロは、人型になっても百六十五センチ程度しかないが、狼獣人の中でも一際立派な体格の銀斗は人型になれば百八十センチ近くある。手の大きさも、指の関節ひとつぶんは優に違う。 「……昔は、よく一緒に寝たよね」 「ああ。クロが寂しがって怖がって、独りじゃ寝れなかったからな」 「僕が甘えん坊とかじゃないよ!? イエネコの毛皮は厚くないから、親兄弟とくっ付いて寝るのが当たり前なんだ。……僕には、親兄弟はいないからさ」  捨て子だったクロの境遇に、銀斗は同情するように少し眉をしかめ、クロの髪を撫でた。クロは遠慮がちに銀斗の着物の袖をつまみ、おずおずと頼んでみた。 「あ、あのさ。今日、ここで一緒に寝てくれない? 久しぶりだし。この先も、もうこんなチャンス、なかなかないと思うし」  銀斗は一瞬片眉を引き上げて口をへの字に曲げ、困惑したような表情を浮かべたが、クロに微笑んで見せる。 「良いよ。……ほら、来いよ」  銀斗が狼に姿を変えたのを見るや瞬時に黒猫に姿を変え、クロは彼のふさふさした胸毛に顔を埋め、しなやかな身体をぴったり銀斗に寄り添わせた。 「うふふ。銀斗、モフモフしてる~。まだ冬毛だね。あったかくて気持ち良い」  目を糸のように細めて満足げにコロコロと喉を鳴らし、尻尾を銀斗の後ろ足に器用に巻きつけ、クロは、銀斗の美しい被毛(ひもう)を舐めて毛繕いしてやる。銀斗は太い尾をクロの背中を包み込むように添わせた。二人は思い出話に花を咲かせる。 「ねえ……、銀斗……。絶対、群れに帰ってきてね。そして、僕の一番の仲良しでいてね」  口元を泣きだしそうにむにゃむちゃと歪ませながら、クロは寝言で呟いた。 「ああ。必ず帰ってくる。誰が何と言おうと、俺にとってはクロが一番だ……」  優しくクロの額を舐め、銀斗は一際自分の毛を膨らませてクロを守るように抱き締めた。銀斗の腕の中で、クロは安心しきった(いとけな)い寝顔を見せている。銀斗はじっとその寝顔を見つめ、ぺろりと舌を出してクロの口を舐めた。くすぐったそうに口元を歪めるクロをじっと見つめ、銀斗は、その藍色の瞳を明日から旅立っていく遥か遠い新天地へと向けた。
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