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音を立てて吹き付ける明け方の風に、ひびの入った窓ガラスが揺れていた。
暖房器具がない部屋の中は、外より少しだけましという温度だ。
痛んだ畳の上に置いてある家具はぼろい本棚と、敷布団、それから丸い机と明かりのついた電気スタンド。
その机に向かって、古本屋で買った過去問を解く男がいた。
安居健司(やすいけんじ)は今年2浪目の浪人生だ。
彼は机の上のベル付き時計を見て、参考書を閉じた。
「もうバイトか……」
ペンを置いて立ち上がり、伸びをする。
健司は部屋の隅にかけてある上着を羽織って、玄関に向かった。
空が白み始めた外に出ると、同じ浪人生仲間の酒井優希(さかいゆうき)がちょうど日課のランニングから戻ってきたところだった。
「おう、健司。これから配達か?」
「ああ、優希。これもそれも学歴のためだから仕方ない」
「はは、そうだな。でもお前顔色悪いぞ? バイトやりすぎじゃないか?」
「そうかも。だけど生きていくためには金が必要だから」
「そうだけどよ……」
心配げな優希に健司はあいまいに笑いかけるしかなかった。
健司の両親は厳しく、援助は浪人するとわがままを言った手前望めないのだ。
優希は良いことを考えたとポケットからスポーツ飲料を手渡してきた。
「ほれ、これくれてやるよ」
「飲みかけじゃねーか。いらん」
遠慮する健司だが、優希は無理やり握らせようとしてくる。
「どうせ節約とか言ってろくに食ってねーんだろ? 飲めって」
「いらねーって! ばっちいな! それにそこは大丈夫だから。俺ちゃんと食ってるぞ」
優希は意外そうに目を丸くした。
「本当か? 節約とか言って飯抜いてるんじゃないのか?」
「……まあ、うん。……あ、ああ! もう時間が! すまん行くわ!」
健司は大げさに言って駐輪場のママチャリにまたがると、白み始めた薄闇の中を立ち漕ぎで飛ばした。
早朝の新聞配達から始まり、大型スーパーの交通整理を終えた頃にはお昼を少し過ぎていた。
これからアパートに戻り、お昼を食べたら返す刀で午後はコンビニバイトだ。新聞配達以外は日雇いで仕事内容はまちまちだが、健司の日常はだいたいこの流れだった。
そうまでしないと月2万のアパート家賃に携帯代、食費、生活費諸々、そして何より駅前の休日限定の塾費用が到底支払えない。
ふらふらな状態で一度アパートの自室に戻った健司は、部屋に入るなり痛んだ畳の上に倒れ伏す。
このままご飯を食べずにバイトの時間までひと眠りしたほうがいいかもしれない。
ドンドンドン。扉を叩く音がした。
無視しようと思ったが、叩く音が止まないので健司は立ち上がり玄関に向かった。
「はい、開いてま」
返事を待たずに扉が開く。
長い艶やかな黒髪と泣き黒子が印象的なエプロンお姉さんが、湯気が立ち、いい匂いのするお皿を持って部屋に入ってきた。
「健司君。今帰り? お昼まだでしょ? 今ちょうど野菜炒め持ってきたの」
「千歳さん……」
彼女はこのアパートの管理人の娘で、ご飯を作ってくれたり、掃除や洗濯をしてくれたりといろいろ世話を焼いてくれる。
他の住人にも同じことをしているのかと訊いたら、健司だけだという。
今朝、優希の質問に答えられなかったのは、この人のせいだった。
管理人の娘さん(年上で美人)にご飯を作ってもらっているなんて話せば、浪人生の絆に深い溝が出来そうなので言えなかった。
「準備するからあがらせてね」
「え、ちょ……」
千歳は健司の返答を待たずにいつも通り部屋に上がると、てきぱきと配膳を済ませ、ついでに台所でみそ汁まで作って食卓に並べた。
「他に食べたいものとかある? あ、そうだ。この間ね美味しい牛肉を貰ったんだけど、健司君さえよければすき焼きとかどうかしら?」
茫然としている間に席に座らされて、お箸で白米を口に運ばれていることに気付くまで少しかかった。
「自分で食べられますって!」
健司は顔を箸を奪って、そのまま白米と野菜炒め、お味噌汁を美味しく頂く。
千歳は健司が威勢よく食べるのを微笑みながら見ていた。
「あの、なんで良くしてくれるんですか?」
食後、皿洗いまでしてくれる千歳に罪悪感を覚えながら訪ねる。
千歳は皿洗いの手を止めなかった。
「前にも言ったけど、私、健司君みたいな弟が欲しかったのよね。だから世話を焼きたくなっちゃうのかも」
「それだけだとやっぱり納得ができないんですが……」
渋面の健司に、皿洗いを終えた千歳が後ろに回って抱きしめてきた。
「ッ!? な、ななにをッ」
柔らかな感触に、しどろもどろになる。
「私がこうしたいからしてるだけよ。ふふ、健司君さえ良ければ生活費とか塾代とかも全部私が出してあげてもいいんだけどな~」
耳元で甘くささやかれて健司はあたふたと席を立ちあがった。
「ば、バイトがあるのでしし、失礼します!」
「ふふ、行ってらっしゃい」
玄関を飛び出した健司に、千歳の絡みつくような声が聞こえた。
その日を境に千歳は健司の世話を焼くだけでなく、体を密着させたり、スキンシップが多くなった。健司はその都度動揺した。
ただ、敵意がないのはわかっていたので、これは千歳なりの冗談なのだと勝手に解釈し、相変わらず千歳の世話にはなっていた。ぶっちゃけ、ご飯の準備や掃除や洗濯をしてもらえるのはありがたかった。
破綻はやはり訪れた。
季節は新緑の街路樹が力強く揺れる頃だった。
「まじか……」
健司は一枚の紙を眺めながら、人で溢れ返る夕暮れの駅前の道をアパートに向かって歩いていた。
道行く人にぶつかりそうになりながら、視線は紙切れを離れなかった。
それは模試の結果だ。
ようやく志望校の合格ラインになった成績が、下がっていたのだ。
健司は心ここにあらずで歩きながら、ここ数か月の記憶を思い返す。
『健司君、疲れてるでしょ? マッサージしてあげようか?』
『じゃーん、今日は美味しいケーキをつくったのよ。食べて食べて』
『ふふ、たまには息抜きしなくちゃだめよ?』
『健司君。遊園地のチケットが手に入ったんだけど……一緒に行ってくれないかしら? ほら、おばさん一人だと恥ずかしいし……』
思い返すのは千歳の事ばかり。
健司は手近に電信柱を見つけると、歩いていって思いっきり頭をぶつけた。
通行人が奇異のまなざしを健司に向け、そそくさと去っていく。
健司は鼻血を地面にたらしながら、ぎゅっと目をつぶった。
千歳さんは悪くない。悪いのは自分だ。甘え過ぎた……かっこ悪い。
健司は鼻血を拭って決意を新たに目を開ける。
「このままじゃだめだ……」
模試の結果をくしゃくしゃに握りつぶして、近くのゴミ箱に捨てた健司は、その足でとある不動産屋さんに向かった。
それから一か月が過ぎた。
健司は以前よりもボロボロな家賃1万円程度のボロアパートの一室で、参考書を開いていた。
玄関扉を叩く音で、彼は参考書から頭を上げる。
「おう健司、俺だ。開けてくれ」
「カギは空いてる」
声を掛けると、ドアノブが回った。
ガチャ、ギギゴッ、ギギギ……。
「うおっ、この扉めっちゃ建付け悪いな。あっちのアパートの方がまだましだ」
「そう思うよ」
寂しく笑った健司に、部屋の中に入ってきて丸机の健司の対面へとに座った優希が尋ねる。
「で、なんで急に引っ越したんだ? 理由も言わないでよぉ! お前が引っ越したせいでこっちは気になって気になって模試の成績が下がったんだからな!」
優希は不機嫌に口を尖らせる。
「わかってるって。だから今回説明の場を設けたんだ」
健司は一度言葉を区切って、窓の外を見つめた。
青空が広がる休日の午後は気温も穏やかで過ごしやすい。
もうすぐ夏が来たらクーラーのないこの部屋は地獄と化すだろう。
少しばかり現実逃避をした健司は優希の目をじっと見た。
「なにを聞いても怒らないって誓うか?」
「もう怒ってるっての。安心しろよ。これ以上怒りようがない」
「本当だな? 信じてるぞ?」
「おう! 浪人仲間に二言はねぇ」
優希が微かに笑みを見せる。
健司は頷いて、重い口を開いた。
「実はな……」
そうして、千歳と過ごした日々を語った。
「と、いうわけで俺は大学合格まで千歳さんから離れようって思ったんだ。いままで隠しててごめん」
優希は肩を震わせて、うつむいていた。
「つまり、あれか? お前はその優しくて甘やかしてくれて世話焼きでちょっとエッチな年上のお姉さんと一緒にいると勉強が捗らねーからあのアパートから出て行ったと? ……うらやま――許さねえッ! お前とは絶交だ! 歯ぁ食いしばれ! 殺す!!」
「浪人仲間はどうしたお前! お、おちつけ!! ここで俺を殺して捕まったらお前の浪人生活は水の泡だぞ!!」
健司の胸倉をつかんで殴りモーションに入っていた優希は思いとどまり、正座をした。
目を閉じて呼吸を整えているのは怒りを抑え、冷静になるためか。
健司は襟首が伸びてしまった服を気にしながら、健司の瞑想が終わるのを待った。
「ふう……よし、ひとまず忘れよう。忘れる。だがお前は忘れるな? 許したわけじゃない」
射殺してきそうな目の優希に健司は頷く。
「ああ……それでいい」
「んじゃ、俺帰るわ。勉強しねーと」
一応疑問が溶けてスッキリしたのだろうか、優希はさっさと玄関に向かい靴を履いた。
「ああ、お互い頑張ろうな」
健司が見送る中、優希は扉を開けて外に出る。
太陽のまぶしさに目を細めた彼はふと何かを思い出したのか、振り返った。
「そういえば、羨ましすぎて聞きそびれてたわ」
「?」
「その千歳さんのことだけどよ……大家の爺さんの娘って本当か?」
「ああ、本人が言ってた」
「ふーん……でもあの爺さんは家族いなくて寂しいからアパート経営始めたって聞いたぜ?」
「そうなのか?」
「うーん……あれか? 隠し子って言うか……離婚してて今家族は一緒にいないって意味だったんか?」
「わからないけど、そういう意味なんじゃないか? ……でもそれだとなんで一緒に住んでない筈の娘があのアパートに出入りしてるのかって話になるけども」
健司と優希は互いに頭を悩ませたが、複雑な家庭の事情は模試の問題よりも難しいという答えに達しただけだった。
難しい話は大学に合格してからが彼女に確認しに行けばいい。
その時千歳が健司を覚えていたら……だが。
「ま、いいや。それじゃあな健司。達者で暮らせよ!」
「ああ、来年は同じ大学のキャンパスで会おう!」
優希の背が見えなくなるまで見送り、扉を閉める。
ドンドンドンドン!
激しく玄関扉が叩かれた。
「なんだよ優希忘れ物か?」
ドアノブに手を掛けると、扉の向こうから懐かしい甘い声がした。
「健司君。やっと見つけたわ健司君……ふふ、ふふふふ」
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