七 宵闇にうたえば

2/2
前へ
/29ページ
次へ
「ど、どうしてそんな風に」 箸を押し付けられて驚き顔の菊子に清磨はそっと囁いた。 「だってな、お前は先ほどから人が食べているところばかり見ておるではないか」 「それは、あの……皆さんのお食事の進み具合を、その、見ていただけで」 「そうなのか。てっきり腹が減っているのかと思ったぞ」 ……ああ、あぶなかった。それにしても、お優しいのね。 菊子は胸をなでおろし、そっと彼の手に箸を返した。 「私は済ませてあります。さあ、旦那様、どうぞお召し上がりください」 「本当によいのだな?では食ってみるか」 腹が減ったのか清磨は料理を食べだした。菊子はそれを見ていた。 ……魚を食べだしたわ。これはお好きなのね。 「旦那様、その鮒はいかがですか」 「うん。梅の味がするな」 「美味しいですか」 もぐもぐ食べながら清磨は話した。 「美味しいが本音を言えば……もっと味が濃い方が好きだな。これを飯に乗せて食いたいな」 「そうですか。そちらの酢の物はいかがです?」 「今、食っている……うん!これは美味い」 「酢の物がお好きなのですね」 菊子はこうして食事の様子を見ていた。他にも色々なことを発見していた。 ……やっぱり。神崎様も食べにくいお料理は召し上がらないわ。これは細かく切って出さないと箸をつけてくれないわ。 食事の観察が忙しい菊子であったが、ここで再び清磨は取引相手と話し合いを始めた。 「これはどうも神崎さん!いやいやこれから乗合自動車が楽しみですな」 「ありがとうございます」 「それにしても神崎さんはやり手でうらやましいです。私も財があれば、車事業を始めたいですよ」 話にどうも嫌味がある男であるが、神崎は気にせず話を続けた。 「金儲けと言われても構いませんが、私は少しでも船の事故を無くしたいのです」 「そうは申してもですね。車の事故だってあるではないですか」 「まあ、そうですが」 「みんなは心配していますよ。あなたが小野川を埋めてこの町の船を無くそうとしているのではないかと。はははは」 あまりの嫌味に宴は静まり返った。この言葉を聞いた菊子は恐る恐る清磨を見た。彼はまったく動じず、箸をおいた。 「そうか。そんな方法があるのですか」 「え」 「それは私も気が付かなかった。ぜひ検討させていただきますよ」 この笑顔の返事に相手は青ざめていたが、ここで勇作が声を掛けた。 「まあまあ。どうぞこちらに、うちの若は冗談が過ぎまして」 そんな部下に始末を任せた清磨は、菊子に肘打ちをした。 「娘、お茶」 「は、はい」 菊子は土瓶の御茶を彼に運んできた。清磨は澄ましてお茶を飲んだ。 菊子はその堂々とした彼の横顔を見ていた。 ……すごいわ。自信というかなんというか。とにかく強いわ。 細かい事で立腹する養家族で育った菊子は、懐の深い彼を繁々と見ていた。 「そんなに驚く事ではない」 「でも」 「仕事をしていればこんなことばかりだ。それよりもお前、どこかで会ったことがないか」 「え」 真顔で見つめる彼は素直な瞳だった。これに気が付いた菊子は席を立った。 「すみません。お化粧を直してきます」 そう言って退席するように言われていた菊子は、やっと廊下にでた。 ……はあ。びっくりしたけれど、これで終りね。 「菊子さん」 「きゃ!びっくりした、笹山さんですか」 心配そうな笹山は廊下で一息ついていた菊子に迫って来た。 芸妓とはいっても、素人臭い菊子の姿に笹原は、酔いに任せて機嫌悪く話し出した。 「一体、調査とは何なのですか」 「それは、その加工場の経営のためで」 「経営のため?それでなぜ芸妓なのですか」 「笹山さん、お声が高いわ」 美しい菊子を壁に押しやった彼は眉をひそめていた。 「……君は神崎氏と親しいのかい」 「いいえ。たまたまです」 「たまたま、ね」 するとこの時、彼が廊下にやってきた。 「おう、どうも笹山さん」 「神崎さん、ご無沙汰しております」 今のうちに逃げようとした菊子の腕を、笹山は強くつかんでいた。 ……笹山さん?どうして。 掴む彼の横顔は、それでも営業の顔で神崎を見ていた。 「挨拶もできずにすみませんでした」 「それは良いのですよ、って、そこにいるのは」 菊子を発見した清磨を、笹山はじっと見た。 「神崎さん。この娘さんと知り合いですか」 ……どうしよう。神崎様には私だと知られたくないわ。 大事になると思った菊子は必死にいいえと首を振った。そんな菊子を見た清磨は、しれとした顔で菊子のそばに来た。 「ああ、知っているよ」 「え」 ……どうしよう?見つかってしまったわ。 清磨の答えに菊子と笹山は驚いた。そんな清磨は笹山の肩を抱いた。 「その娘は今宵、俺の酒を勝手に飲んだ娘だ。それよりも笹山さん。融資の利率の事で相談があるんだ、こっちで話を」 そういうと笹山を連れだした清磨は、ちらと菊子を見た。まるで行け!と送って来た視線の合図にほっとした菊子は、やっと奥の部屋に戻ることができた。 そして着物を着替えた菊子は、他の芸妓と一緒に夜道を帰宅した。 ……それにしても、神崎様はああいう方なのね。 意地悪な男だと思っていたが、優しい一面もあると菊子は知った。料亭からの帰り道の小野川のほとりの商店は閉まっていたが、月明りが水面を照らし明るかった。どこか嬉しい気持ちの菊子は、柳とともに揺れながら家路を歩いていた。 ◇◇◇ 神崎清磨は夜会に来ていた。 ……うう、早く帰りたい。 仕事で酒席が続いていた清磨は、すで疲労困憊であった。それでも彼は勧められる酌を受けていた。 「神崎様、今夜はお会いできて光栄です」 「ああ、どうも」 そんな清磨は疲労のためそっけない態度になっていた。こんな清磨を勇作が笑顔で脇を突いた。 「若、こちらは石田石油さんです」 「それはどうも」 上の空の清磨に限界が来たと悟った勇作は自ら動いた。 「恐れ入ります。私は秘書の渡辺と申します。石田さんは佐原の町に給油所を建設予定と伺いましたが」 こうして勇作が取引相手と話し合っていたが、清磨は適当に相手をし、逃げるように窓辺から外の星を見ていた。 ……今頃は、何をさせられているのであろうか。 華やかな夜会の芸妓が動きまわる今宵の席の清磨は、つい上正の娘を思い出していた。生意気な娘であるが、それは工場を守るための彼女の決意の表れであった。 ……融資の条件を厳しくしてしまったし。 ほんの困らせるつもりであったが、彼女には相当の負担になった様子だった。清磨は自分のしたことを心から後悔していた。この苦しみも手伝って、彼は気分を悪くしていた。 しかしその時、彼はある芸妓を発見した。 ……なんだあの娘は。食べているところを見ておるのか。 接待を勇作に任せた清磨は、怪しい芸妓を見ていた。そんな彼女はたまたま自分のそばに来ていた。 ……しかし、なんてぎこちないのだ。この娘は新人だな。 彼がひそかに観察している事を知らない様子の娘は、何とか酌だけをこなしていた。そんな彼は駐車場の話になっていた。 この間に彼の元にはまたしても酒を注ぎにきた取引相手がいた。 ……また飲まねばならぬのか。うう。 「ささ、神崎さん」 「恐縮です。あ、あれ」 ……あれ?空だ、いつの間に飲んだのだ? 不思議であったが、彼は相手の酒をもらい笑顔で誤魔化すことができた。 先程までは確かに酒が満杯に入っていたはずだった。その時、清磨は側の芸妓を疑った。 ……もしや、この娘、腹が減って俺の酒まで飲んだのか? この芸妓は先程から人が食べるところばかりを見ている様子に、彼はそう見当を付けた。 「おい、箸はどれだ」 「こちらですよ」 「ああ。お前が使え」 「え」 清磨は真顔で芸妓を見た。 「お前、腹が減っているのだろう」 「ど、どうしてそんな風に」 しかし。彼女は見ていただけだと話した。清磨はどこか腑に落ちなかったが、美味そうな魚を食べ始めた。 娘はそれらについてあれこれ尋ねてきたが、彼は適当に答えていた。その時、前から感じの悪い取引先の男が、酔った勢いで絡んできた。 ……つまらぬ。だから酒席は嫌なんだ。 そこでいつものように言い返したが、隣にいた娘が心配そうにしていた。 彼は娘を落ち着かせようとお茶を持ってこさせた。 そのお茶を湯呑に注ぐ仕草が、どこか見覚えがあった。 ……どこだ?どこで見たのだ。 「……それよりもお前、どこかで会ったことがないか?」 「え」 そんな質問をしたせいで、娘は座敷から去ってしまった。 その後、またしつこい相手に絡まれた清磨は手洗いに立ち、席に戻ろうとした際、廊下で芸妓が笹山に絡まれているのを発見した。 ……珍しいな。あの笹山さんが。 彼も仕事で付き合いのある真面目な印象の笹山の気になる態度に、思わず彼は声を掛けた。 「おう!笹山さん」 「神崎さん?挨拶もできずにすみませんでした」 「笹山さん。それは良いのですよ、って、そこにいるのは」 芸妓を見つめる自分に、笹山は真顔で尋ねてきた。 「神崎さん。この娘さんと知り合いですか」 笹山の問いに清磨は間を置いた。 ……困っている顔だな、この娘。 彼でもわかる素人娘は、笹山に捕まり明らかに困っていた。そんな娘を彼は助ける事にした。 「ああ、知っているよ」 「え」 清磨の答えに菊子と笹山は驚いた。そして彼は、笹山の肩を抱いた。 「その娘は、今宵、俺の酒を勝手に飲んだ娘なんだ。それよりも笹山さん。融資の利率の事で相談があるんだ、こっちで話を」 娘は何かを言いたそうであったが、彼は目で「ここから去れ」と伝言を送り本当に笹山と話をした。それは清磨と笹山の勤務先の銀行である三菱館との融資であった。気になっていたことを清磨は再確認したていると、笹山の方が質問してきた。 「ところで、神崎さんは上正に融資をしたそうで」 「そうです」 「それは、この佐原の地で、円滑に事業を推し進めるためかと存じますが」 「ええ、そうです」 「本当にそれだけですか」 「……どういう意味ですか」 清磨の問いに笹山はふっと笑った。 「すみません。他にも融資先があったと思うので、なぜ上正なのかと思いまして」 「たまたまですよ、さて、宴会もこれまでかな」 こうして彼は答えを交わしこの席を終え、勇作と店を後にし迎えの車に乗り込んだ。 勇作は酒を飲みすぎたのか、寝息を立てていた。 ……ああ、疲れた。 そんな彼は窓の外を見ると、静かな水路は月の姿を映していた。彼はただそれを見ていた。 ……あの娘は、この川を舟で漕いでいるか。 目をつむると菊子が歌っていたわらべ歌が聞こえてきた彼は、少し笑った。 ……「きんす、どんす」、か。なぜか今宵は、あの娘を思い出すな。 月の夜風は柳の枝を揺らす中、清磨は心地よい疲労に包まれながら、帰路を急ぐ車の中でねむっていた。 七「宵闇にうたえば」完
/29ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3501人が本棚に入れています
本棚に追加