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八 弁当売り
「斎藤さん、おはようございます」
「お嬢、ずいぶんと早いお出ましですね」
「ええ!大収穫なのよ」
夕べの料亭『山田屋』にて紳士の食事の様子を調べてきた菊子はさっそく新商品開発を始めていた。それは清磨の感想もあるが、他の参加者達を観察した結果であった。
「斎藤さん、味は思い切って甘口にします」
「甘口ですか」
「ええ!」
菊子は調査の推察を話した。
「あのですね。みなさんウナギは食べるんですよ。それにはあの店のタレが美味しいからだと思うのです」
「あの山田屋さんは確かに関東なのに関西風ですからね」
「そうなんです!でもうちでウナギはできないので、ワカサギでいきます」
生き生きしてる菊子は話を続けた。
「でも。問題はこれの売り方なんですよ」
「売り方ですか」
「ええ」
当初の菊子は売り上げの倍増のため、高値で販売できる商品を作ろうとしていた。そのため使用する魚を大きなものを使おうとしていた。
「大きい方が立派だから高く売れると思ったのですが、実際は食べにくいので敬遠する人がいるみたいなのです。だったら、小さい魚の方がたくさん売れるかもしれないです」
「なるほど」
そして菊子は思い切って打ち明けた。
「この味付けの煮魚にしてお土産で販売予定でしたけど、お弁当はいかがですか」
「弁当ですか」
清磨が白飯で食いたいと言ったことを採用した菊子は斎藤に説明をした。
「はい!ここはお米もありますもの。これをサッパ船で運んで、佐原の川口渡船場で販売してみようと思います」
「え?うちで弁当をつくるのですか、それは」
ここ利根川水域にそって発達をした佐原の村落には、古くから交通の一つの手段として各河川に渡船場が設けられていた。
九か所ある渡船場は人々の対岸への往来の足であった。これらの中で両岸に渡し場があるのは佐原出口と野間谷原であり、中でも佐原川口は川幅一三五間と、二番目に川幅があり船を二艘で運行している規模であった。
清磨に借金を返済せねばならない菊子は、この多くの人が利用するこの渡船場で弁当を販売すると決めた。
……お客さんを待ってばかりはいられないわ。こちらから売っていかないと。
そして斎藤を説得した菊子はやがて上正弁当の販売を始めた。
「いらっしゃいませ。どうぞ。お弁当です」
「いかがですか?いかがですか」
農家が実家の従業員の娘達と一緒に菊子は弁当を売っていた。案の定、渡し船を降りた人々は立ち止まってくれた。
「これは何が入っているんだい?」
「はい、ワカサギのかば焼き風です」
「へえ。買ってみようかな」
「ありがとうございます」
こうして午前中、菊子は佐原にやって来た客に弁当を売っていた。売れ行きに従業員達は嬉しい汗を拭いていた。
「良かったですね。お嬢」
「こんなに売れたし」
「ええ。初日はまずまずね」
用意した弁当が完売したので菊子たちはこの場を引き上げて小舟で上正に帰って来た。そして二日目も弁当を販売した。
「あ。昨日の娘さんだね」
「昨日、お買い上げのお客様ですね」
「ああ。今日は五つおくれよ」
「え?五つですか」
彼がひとりで食べるのかと思った菊子は驚いたが、相手は笑っていた。
「違うんだよ。家族にお土産さ」
「そうですか」
弁当を販売したところ再び買う客で弁当はあっという間に売れた。菊子はこれを知り、弁当以外にもお土産用の商品まで置くようになっていた。
これも瞬く間に評判になっていた。そうした日、菊子は軌道に乗った弁当売りを従業員に任せ、工場で商品をたくさん作っていた。すると呼ぶ声がした。
「お嬢!大変です」
「どうしたの」
「とにかく。船着き場に来てください」
慌てる従業員に袖を引かれた菊子は、現場まで舟でやってきた。そこでは知らない男達がいい寄っていた。
「どうしたのですか」
「社長を呼べと言ったはずだが」
「私が社長ですけど」
すると一人の男は菊子を見下ろした。
「お前、誰に断りをいれてここで商売をしているんだ」
「ちゃんと佐原村に場所代を払っていますが」
「うるせ!ここは元々俺達の縄張りなんだよ」
「きゃあ」
そういって男は菊子を突き倒した。その勢いで弁当は崩れていた。
「いいか!ここで商売をしたければ大人しく俺達に金を払うんだな!わかったか」
そういうと、男達は上正の弁当を踏みにじり帰って行った。従業員たちは茫然としていた。
「お嬢、大丈夫ですか」
「ええ。私は平気よ」
「……明日から、どうしましょうかね」
「そうね」
ひとまず場所を片付けた上正娘達は、悲しい気持ちで上正に帰って来た。この日は雨が降って来たので、菊子は明日の弁当売りは中止にすると決め、従業員達を家に帰した。
……はあ、どうしたらいいの。
せっかく軌道に乗った弁当の販売であった。これで借金を減らせると思った菊子は目の前の壁にただ落ち込んでいた。
この夜、上正の家族の食事を作り終えた菊子は一人の部屋で考えていた。
……あの男の人達にお金を払えば、商売ができるかもしれないけれど。
それをすれば、きりがないと菊子は思っていた。解決の糸口が見えない菊子は眠れない夜を過ごしていた。
翌日の雨、従業員達は誰も来なかった。雨だれが響く工場で、菊子はだた一人商品を作っていた。
……怖いけれど。売らないとお金を返せないわ。
菊子は弁当を他の場所で販売することも考えたが、そこでも同じことが起こるような気がしていた。菊子は考えながら作業をしていた。
……でも、みんなを危険な目に遭わせられないわ。
妨害に遭った日の従業員達のおびえた顔を思い出した菊子は決心した。そして翌日、弁当作りの社員に話した。
「みんなは運ぶだけでいいわ。私が一人で売ります」
「そんな?」
「お嬢だけでは無理よ」
しかし菊子は首を横に振った。
「いいえ、ここは私だけでやります」
強気に話す菊子であったが、女工達はそれでも一緒に行き弁当を販売していた。この日も売り上げが好調であったが、やはり男達が妨害にやってきた。
「姉ちゃん、金はどうした」
「払いません。ここはあなた達の土地じゃないですもの」
「てめえ!いい加減にしろ」
「おい。いいから。ぶっつぶしちまえ」
弁当を投げ捨てる男達の前に菊子は従業員たちに叫んだ。
「みんな。早く逃げて」
「お嬢を置いていけないです」
「お嬢こそ逃げてください」
「私は逃げないわ。あれ」
すると、菊子をかばうように男性達がすっと前にでた。
「おい。お前たちは何の権限があってそんなことを言っているのだ」
「はあ?てめえは誰だよ」
「俺達は佐原漁業組合の者だ」
気が付くと、日焼けした屈強な彼らは菊子達を守るように立っていた。
「俺達が獲った魚をこのお嬢さんはここで売っているんだが、それについてお前さんたちの断わりがいるのか」
「そ、それは」
「お前さんたちの断わりが要るって意味を、聞かせてもらおうじゃねえか、あ?」
そう迫る漁師たちを前に、男達は去って行った。これを見た一同はわっと歓声をあげた。
「あの旦那様。ありがとうございます」
菊子がお礼を言うと彼は白い歯で笑った。
「上正のお嬢ですね。俺は漁師の代表の柏木彦五郎といいます。どうか彦五郎と呼んでください。こっちこそお礼を言おう言おうと思っておったんですよ」
鉢巻き姿の日焼けした男性は恥ずかしそうに頭をかいた。
「あんたは上正の社長になってから一生懸命、俺達の魚を売ってくれて助かっているんだ。俺達だってこれくらいは役に立ちたいと思って」
「嬉しいです、本当に」
「いやいや。頭なんか下げてもらっちゃ困るよ」
そして漁師達は弁当販売の屋台を直してくれた。
「どうだい。これで」
「お嬢、屋根もつけてもらいましたよ」
「こっちも棚を直してもらいました!」
漁師たちとほほ笑む女従業員に菊子も嬉しくなっていた。
「あの。お嬢」
「彦五郎さん。私の事は菊子で良いのですよ」
「いえ、私らにはお嬢です。ところで」
彼は乱暴者の達の正体を探っていると話した。
「あいつらを祭りの時の屋台などで顔を見たことがある者がおりますね」
「そうですか」
不安そうな菊子の顔に、彦五郎は大丈夫とうなづいた。
「あいつらの正体はこっちで調べてきますよ」
「心配ですね」
「まあ、何かあったら飛んできますので」
すると菊子はじっと彦五郎を見つめた。
「違います。私が心配しているのは皆さんの方ですよ」
「え」
「どうぞ無理しないでくださいね?あ。そうだわ」
菊子は世話になったと弁当を彼らに配るように指示をした。
「彦五郎さん、お代はいいですから」
「そんなわけにはいかねえですよ」
腹巻から財布を広げた彼を菊子は制した。
「本当にいいのです。ちょっと、形が崩れているけれど、ねえ、みんな。全部お渡しして」
「はい、お嬢!」
「みなさん、ありがとうございました」
こうして菊子は弁当をふるまい、感謝の気持ちとした。この翌日から評判を聞きつけた人達で弁当が飛ぶように売れていた。
その一週間後、話を聞きつけた清磨が上正に顔を出した。この場にいた菊子は驚きで見つめた。
「神崎様。どうしてここに」
「来ては悪いか」
「そんなことはありません」
しかしどうしてきたのか不思議な菊子に彼はため息をついた。
「ついでがあったので寄ってみたのだ。最近の帳簿を見せろ」
「はい」
彼に返済がある菊子は、事務所で彼に帳簿を見せた。斎藤は取引先に外出中であったので、清磨と勇作に菊子は説明をした。二人は売り上げの数字に驚いていた。
「勇作。この弁当はすごいな」
「このまま順調に売れればの話ですが、今だけかもしれません」
「それはそうだが」
手厳しい勇作の意見に彼はちらと菊子を見た。菊子は真剣にうなづいていた。
「ご指摘通りです、そこでこちらでも次の商品を考え中です」
「ほう、感心だな」
ここで加工場から声がかかった。菊子は二人に説明をした。
「神崎様。新商品のお弁当ができましたのですが、試食なさいますか」
「もちろんだ」
「では今、お持ちします」
立ち上がろうとした菊子を見た清磨は勇作をちらと見た。
「勇作。お前が貰ってこい」
「私がですか?」
「ああ。ボケっとするな」
「はい」
そして二人だけになった部屋で清磨はじっと菊子を見た。
……気まずいわ。
どこか観察するような彼の視線に菊子は息が苦しくなった。
「あの、今、お茶を淹れなおします」
「菊子と申したな。お前に聞きたい話がある」
清磨の声に菊子は彼を見た。彼は足を組んだ。
「お前は亡くなった上正の長男夫婦の娘だそうだな。なぜ、加工場の社長をしておるのだ」
「それは、その」
「上正の赤字をこの加工場で被っているのは分かっている。俺が知りたいのはなぜお前がそんなことをしているのか、ということだ」
静かな事務所では柱時計の音が響いていた。
「身内の事なので、お話できません」
「融資をしているのは俺だ、お前に拒否権はないぞ」
「……」
彼の本気の目に菊子は隠せないと心を決めて従った。
「私の両親は多額の負債を残して亡くなりました。私にはその責務があるのです」
「親の借金があるのか」
……勇作の話では、この娘が浪費したとあったが、違うのか。
報告とは異なる様子に清磨はドキドキしていた。菊子は悲し気に話を続けた。
「はい。それに上正の叔父は私を育ててくれたので、恩を返さないとなりません」
悲しくつぶやく菊子を清磨は目を細めて見ていた。
「でもそれだけではありません。この加工場は祖父が大切にしていたものです。だから、なんとかして」
だんだん声が涙声になってきた娘を前に、清磨はしまったと顔を上げた。
「……残したくて、私は」
「わかった!もう良い」
「すみません……」
「それ以上は申すな」
涙をこぼした菊子を前に清磨はあわてて手で制した。
「神崎様」
「それよりも。弁当はまだか。あ」
ここで勇作がお盆に乗せて弁当を持って入って来た。
「若。これが新商品だそうです」
「うまそうだな。さて、勇作も食え」
「はい」
そして菊子は食べ始めた彼らに説明を始めた。
「その鮒は味を濃い目にして。食べやすいように切りました」
「うん、良い良い。なあ、勇作」
「別に普通ですが」
「勇作は美味い味を知らぬのだ。ん、この味噌汁も美味いな」
「はい」
清磨のために長ネギを入れなかった菊子は、彼が食べている様子が気になっていた。
「お味はいかがですか」
「うん、美味いぞ」
「そのお新香はいかがですか」
「魚に合うな。このままでもいいな」
「お魚に山椒を掛けてみると良いかと思うのですがどうかしら」
「……いいぞ、掛けてくれ、うん……おお。俺はこれがいいな」
嬉しそうに食べる清磨に勇作は呆れていた。
「若。そんなに美味しいですか?私は普通だと思いますけれどね」
不服そうな勇作であったが、食べ終えた清磨はまたしても勇作に食器を下げさせた。部屋はまた二人だけになった。
「おい。お前は先日の山田屋の芸者であろう」
「なんのことでしょうか」
惚けた菊子に清磨は続けた。
「どこかで会ったと思っておったんのだ。お前あの時、俺の酒を飲んだくせに」
「まあ、私はお酒なんて飲んでいません!あ」
「認めたな、ははは」
彼の笑顔に菊子はどきとした。
「それにしても。お前は芸者もしているのか」
「……あれはお料理の調査で、その、秘密で調べようとしたので」
「それであの格好をしておったのか」
お茶を飲んだ清磨に菊子の心はざわついていた。
「あの、どうか上正の叔父には内密にしてください」
「まあそうであろうな」
……どうしよう。神崎様に知られてしまったわ。
どこか嬉しそうな彼を前に菊子は冷や汗をかいた。他にも笹山に知られてしまった菊子は、悲しくため息をついた。
……きっと。叔父様の耳に入ってしまうわ。
せっかくここまで順調だった社長業であったが、菊子の目の前は真っ青になっていた。そんな菊子に清磨は話した。
「そんな顔をするな。俺は他言はせぬ」
「本当ですか」
「ああ、お前は返済のためにやったことだからな。今回は見なかったことにしてやる」
「……神崎様」
「なんだ?」
彼が見上げると菊子は真剣な顔をしていた。
「私も誰にも言いません。神崎様がおネギが嫌いなことを」
「ぶ!?げほげほ」
「まあ、大丈夫ですか?今拭きますね」
驚きでお茶を噴き出したが、菊子に膝を拭いてもらった清磨は笑っていた。
「神崎様、シミにはなっていませんわ」
「娘よ……新作、大変美味であった。これからもせいぜい励め」
「はい。ありがとうございます」
素直な笑顔の娘に神崎は思わず胸の中で心を崩した。やがて勇作と供にこの場を後にした彼の足取りは軽かった。
完
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