九 あやめ娘

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九 あやめ娘

五月晴れの朝、庭に洗濯物を干す菊子はまぶしい朝日に目を細めていた。 ……さあ、今朝も頑張ろう! 誰よりも早く起きた菊子は家事を始めていた。洗濯と掃除を済ませた菊子は、朝食の支度になった。これは毎日同じ食事である。白米を炊き、みそ汁と小魚の煮物、大根おろしに納豆に漬物であった。簡単な食事は昔からの習わしで、これをつくれば後は叔母が自分で支度した顔で家族にふるまうのであった。 菊子が大根を下ろしていると叔母が台所に顔をだした。 「叔母様、おはようございます」 「……お前は朝からうるさいんだよ。静かに掃除ができないのかい」 「すみません」 機嫌の悪い叔母の小言から始まるのはいつものことだった。菊子は構わず朝食を作っていたが、叔母はのんびりと水を飲んでいた。 早く工場に行きたい菊子であったが今朝は叔母の指示で朝食を叔母夫婦と牡丹に出していた。 源次は食べながら菊子に尋ねてきた。 「菊子。その弁当はずいぶん売れているそうだな」 「はい。今日は釣り客の予約も入っています」 「その売り上げの利益だが。来月からは工場ではなく上正に付けるからな」 「え」 「だってそうであろう。お前の工場は赤字にしろ、と言ってあるはずだ」 「……そうですね」 ……叔父様は、そこまでして工場を倒産させたいのね。 自分の商売の事だけしか考えていない叔父に菊子の胸は悲しく詰まった。しかし、彼女は決意した。 「ですが叔父様。神崎様の融資はどうされます?それに神崎様は工場の利益をもっと出すように条件を出してきています」 「それがあったか」 思い出したような源次に菊子は続けた。 「それについて叔父様に相談しようとしていましたが、今、お弁当を包んでいる包装紙は真っ白のものなのですが、これを上正の広告入りの包み紙にしたいのです」 「上正のか」 「はい。そうすればお弁当を買った人が上正の商品も買うのではないかと思います」 「……」 菊子の話に考える様に源次はお茶を飲んだ。この顔を見たタミは菊子を睨んだ。 「お前!社長になったらと言ってその偉そうな態度は何なんだ!」 「叔母様、私は叔父様に相談しているだけです」 「それが偉そうなんだよ!お前は言われたことだけをすればいいんだ」 「タミ。静まれ」 叔父の一言で朝の部屋は静かになった。そして源次はつぶやいた。 「いいだろう。上正の包み紙を使え」 「ありがとうございます」 ほっとした菊子が叔母を見ると憮然とした顔で飯を食べていた。すると食べ終えた叔父が話し出した。 「そうだ。今年のあやめ祭りについてだが、今年は節目の年なのでな。盛大にやる事になった」 「盛大ですか。ではいつものように花を売るだけではないのですか」 「そうなるな」 源次は食後の御茶を飲んでいた。 「それは実行委員が考えるだろう。こちらは頼まれた人員を派遣すればそれでいいさ」 「そうですよね。お手伝いは最低限にしたいわ」 しかし食べていた牡丹が話に入って来た。 「まあ、お母様。牡丹だってお手伝いをしますわ」 「そうだったわね。お前はうちの娘ですもの」 あやめ祭りとは、たくさん咲いている花を酒瓶に挿し販売したのは始まりであった。今ではこの花売りも盛んであり牡丹も毎年手伝いをしていた。 牡丹は上正の令嬢であるので、現場の花売りではなく茶屋でお茶を出すなどをしていた。こんな会話であったが菊子は黙って片づけをしていた。 ……そうか、あやめ祭りか。 叔父家族のだんらんの会話の中、菊子だけは難しい顔で家事をこなし、工場へと向かった。 ◇◇◇ 工場で弁当を作った菊子は橋渡し場で販売をしていた。客が途切れた今、女工に任せた菊子は、まだ咲いていないあやめの花達を遠くから眺めていた。 ……あの花を観にたくさんの人がくるのよね。 それはたくさんの人が訪れる行事であった。菊子はそれを思い出していた。 「そうだわ」 「お嬢、どうされたのですか」 「良い事を思いついたのよ」 「え」 「ああ、早く帰って斎藤さんに相談しないと!」 落ち着かない菊子を見た従業員は彼女を帰した。菊子は斎藤に相談した。 「え?あやめ祭りで弁当を売るのですか」 「ええ。どう思いますか」 「それは確かにたくさん売れるでしょうね、でも」 「でも?」 斎藤は目をつむって考えながら話た。 「どこで売るつもりですか」 「いつもの橋渡しです」 「なりません。なりません!すごい人ですから」 斎藤の話ではたくさんの人が一気に訪れるため、それは無理という事だった。 「それに食べる場所もありません。その問題を何とかしないと無理です」 「そうか、食べる場所か」 せっかく思いついた案であったが、様々な問題があった。これに悩みながら菊子は叔母の指示でお使いに出かけた。サッパ舟を竹の竿で浅い川底を突きながら小野川を進みやがて利根川の広い流れにでていた。 ……お弁当を売る場所か。どこで売ればいいのかしら。 この広い川では菊子は竿をしまい櫂を取り出した。そして漕いでいた。 ……うーん。どこで売ればいいのかしら。 考え事をしながら進む菊子であったが、やがて細い川へと入って行った。ここは加藤州といわれる集落で舟がやっとすれ違えるほどの狭い川の両岸には民家が立ち並んでいた。そこに架かる橋をくぐりながら菊子は慣れた様子で藤見橋にて舟を停め、そして石の階段を上り、叔父のかかりつけの個人病院にやって来た。 「すみません。潮田です。お薬を頂きにきました」 「菊子ちゃん。いいところに来たわね。ちょっと上がっていきなさい」 看護師の奥方は、今は患者がいないと言い病院の母屋に菊子を招いた。遠慮する菊子に奥方は微笑んだ。 「お菓子があるから食べていきなさい。帰りが遅れたら、病院が混んでいたせいにしていいから!さあ、とにかく休憩しなさい」 「ありがとうございます。ではいただきます」 子供がいない奥方はいつもこうやって菊子に優しくしてくれていた。そこへ医師が顔をだした。 「やあ。これは女社長のお出ましだ」 「先生、冷やかさないでください」 「冷やかしなどではないよ。君の評判さ」 老齢の医師は菊子を褒めてくれた。それは彼が患者から聞いた話によるものだった。 「みんな感心しているよ。君が頑張っているから」 「それは周りの人の応援のおかげです。でも今はちょっと困っていまして」 「どういうことかね」 菊子はあやめ祭りで弁当を売りたい話をした。医師の夫婦は茶を飲みながら聞いていた。 「売れるとは思います。でもいつもの渡し場は混雑して、とても売る感じではないし」 「確かにあそこは危険だよ。何年か前に人が押されて怪我人が出たことがあったし」 「ですよね、ああ。どうしたらよいかしら」 「ここがいいんじゃないの」 この言葉に菊子と医師は彼女を見た。 「お前、それはどういうことだね」 「あなた。祭りの時はこの医院は休診にしますでしょう?だから菊子ちゃんにうちの川岸の土地を貸してあげるのはどうですか」 「ああ。そこか」 うなづく医師であったが菊子は、奥方に向かった。 「でも奥さん。ここはあやめから離れています。それに舟じゃないと観光の人は来ないわ」 「ええ、だからあなたが連れて来るのよ」 「どういう事ですか?」 不思議顔の菊子に奥方は説明を始めた。 「私はここにお嫁に来て驚いたのだけど移動はみんな舟でしょう?それにこの目の前の川なんかこんなに細いのにみんな舟で上手にすれ違うじゃないの」 「まあ、そうしないと通れないので」 「それって観光客にしたらすごいことなのよ。私の母なんか行ったことがないくせに『水の都ベニスみたい』って言って。ここに来ただけで大喜びなのよ」 「ではお前は、菊子さんに舟に客を乗せて観光しろというのかね」 「そうです。地元の人にとっては生活水路だけど、よその人からしたらこの十二橋の下を潜るのって、とても素敵だもの」 二人の会話を菊子はじっと考えていた。 ……そうね。舟はたくさんあるし、うちの女工さんに船頭をしてもらって…… そして菊子は医師夫婦の案をさらに煮詰め、これを実行することにした。 ◇◇◇ 「勇作。どこに行けばよいのだ?」 「茶屋でお茶にしましょうか」 あやめ祭りの日。商工会議所の付き合いで招待された清磨は勇作と一緒に会場に来ていた。会場の川のほとりにはたくさんの観光客が集まっていた。 「まあ、神崎様」 「お前は誰だ」 「私は上正の娘の牡丹です。どうぞこちらでお茶を」 美麗に着飾った牡丹は清磨を茶屋に誘った。お盆を持った牡丹は、化粧をし美しい着物を着ていた。そんな牡丹は憮然としている彼を椅子に座らせた。 「今、お茶をお持ちしますね。誰か!お茶をお持ちして」 ……自分で淹れずに指図だけか。 そしてニコニコと彼のそばにいる牡丹に清磨はそっぽを向いていた。 「神崎様、あやめはご覧になりましたか?」 「若。お嬢さんが話かけていますよ」 それでもツーンと無視している清磨の元にやっとお茶が届いた。 「さあ、どうぞ」 「若。お団子もありますよ」 「……お前が食え。俺は外にいる」 「あ?若!」 牡丹の香水の匂いにうんざりの清磨はそっと外にでた。すると人だかりを発見した。 彼はそばにいた男に質問をした。 「あれは何ですか」 「あれかい?あれは女船頭だよ」 「女船頭」 「ああ。なんでも舟からあやめの花を観るとかで、他にも上正の弁当が付くらしいよ」 「ありがとう」 そして清磨は人を掻き分けて川岸までやってきた。そこにやはり彼女がいた。 笠をかぶった年頃の娘は髪を上げて結ぶのは流行りでありうなじが見える中、だた一人だけ長い髪を下で結び、肩に流している娘がいた。 「おい。女社長」 「まあ、神崎様ですか」 女船頭の恰好の菊子を彼は見下ろした。 「ここで何をしておるのだ」 「お祭りでお弁当を。あ。いらっしゃいませ」 菊子は舟に観光客をどんどん乗せていた。そして女工の船頭の舟は出航していった。菊子は岸から手を振って見送っていた。 「行ってらっしゃい!」 「だから。これは何なのだ」 「すみません。あ。そうだ」 憮然としている清磨に菊子は謝った。 「ごめんなさい。説明は後で良いですか?今から私、お弁当を届けに行かないとならなくて」 そういうと菊子は小舟に乗り込もうとした。しかし清磨は腕を出し彼女を抱きしめる様に止めた。 「おっと、お前はどこまで行くのだ」 腕の中の菊子はびっくり顔で答えた。 「あそこまでです。すぐに戻りますので」 「俺も乗る」 「え」 「おい、参るぞ。ぼっとするな」 「は、はい」 そして清磨は舟に乗り込んできた。驚きの菊子であったが、他の舟の支度をしている女船頭の仲間が声を掛けた。 「お嬢!向こうに着いたら弁当はそれで終わりと言ってください」 「わかったわ。では神崎様、捕まって」 「おう」 菊子は舟に腰掛け櫂を持つとぐいぐいと漕ぎだした。清磨は広い川をしみじみを見渡していた。 「神崎様。寒くないですか」 「ちょっとな」 ……こんなに遠くまで来るとは。 実は水が苦手な清磨の後悔を知らない菊子は彼に毛布を渡した。 「ではこれを被ってくださいね。これから速度を上げますので」 「これ以上に?」 毛布を受け取った彼を菊子は微笑んだ。二人を乗せた子舟は水と風の中を進んでいった。 「あれは何の工事だ」 「水郷大橋(すいごうおおはし)ですね。いよいよ工事が始まるみたいです」 人が多く集まる川岸を神崎は目を細めて見た。 「利根川の向こうの東村につながる橋だ。そう言えば我が神崎も出資しておったな」 「便利になりますね」 「だが、渡し舟は利用されなくなるぞ。お前はそれで良いのか」 「……そうですね。橋も便利だし、舟もあればいいし。互いの良い所を使えば良いのではないかしら」 「へえ。さすが女社長は違うな」 しかし菊子は遠くの空を眺めた。 「そんなわけではありません。ただ何でも使っていかないと私なんかとっくに潰れていますもの」 ……その考え方が経営者なんだよな。 密かに菊子に感動している清麿は彼はじっと菊子を見た。 「やっぱり寒いですか?」 「お、俺はいいからしっかり焦げ」 「はい」 菊子が進めた舟はここから狭い川に入って行った。そこには水門があり行き止まりになった。 「なんだこれは!」 「お待ちくださいね」 「うわ?水が出てきた」 「まあ、神崎様」 気が付けば背後も門がしまりこの場には水が大量に入り水位が上がっていた。 びびる清磨は菊子に抱き付いた。 「だめだ!沈む……」 「大丈夫ですよ。菊子がおります。それよりもじっとして」 「だが!」 「大丈夫です、よしよし……」 恐怖で菊子にしがみつく清磨は柔らかい彼女の胸に目を閉じていた。 ……なんかこの感触、この匂い、なぜだかほっとするな。 「神崎様、もう大丈夫です。見てください」 「……お、おう」 震える彼を菊子は優しく背中をとんとんと撫でた。次第に彼は落ち着きを取り戻し、そっと川を見た。 「これは?水を増やして水位を上げているのか」 「そうです。今通って来た川とこれから入る川は水位が違うので、こうやって調整します」 「すごい仕掛けだな」 「ええ。パナマ運河と同じそうですよ。さあ、開門です」 開いた先には狭い川の上に青空は広がっていた。ここで菊子は彼に笑顔だけを残しすっと立ち上がると櫂から竿に持ち替え、川底を突きながら舟を進めた。 まだどこか不安な清磨は、菊子の足にくっついて座っていた。 「ここはすごいな。これは住居か?」 「そうです。ええと、やっと説明しますね。この舟はこれから十二の橋の下を通って行きます」 「ほう」 「まずはこちらをご覧くださいませ」 菊子は頭上のアーチ状の橋を指した。 「思案橋、黄門橋、しのぶ橋となっています。ここは民家がならんでおり、この橋はすべて生活のためのものです」 「へえ。この岸を上がればすぐに家か」 「そうでございます」 菊子が暮らす小野川は大きな商屋が並んでいるがここは民家が並んでおり、川からすぐに家に入るような作りであった。 「まるで人の家の庭を通過しているようだな」 「そうでございます……」 しかしここで菊子は黙ってしまった。清磨はじっと彼女を見つめた。 「ん?もう終いか」 「すみません。ここはこれ以上、お話しすることがなくて」 弱り顔の菊子に清磨は思わず笑った。 「ふ、ふふふ、はははは」 「申し訳ありません。退屈ですよね」 「いや、そうであろう。ここはただの住宅なのだから。そうだな」 清磨はふと思いついた。 「お前。歌え」 「歌ですか」 「例のあれだ、『きんすとかどんす』だ」 「でも、あれは童歌ですよ」 「いいのだ、俺はあれが好きなんだ。歌ってくれ。はい、どうぞ」 どこかふざけているような清磨であったが、菊子は歌った。清磨は気分よく舟に寝そべりながら、可愛い声に目を閉じていた。 「『あやめの茶屋で』……あ。ここです。停まりまーす」 「なんだまだ聞きたかったのに」 舟の動きがゆっくりになった。彼が起きると娘達が手を振っていた。 「お嬢!待ってました」 「あれって、例の八日市場男じゃないの」 「どうでもいいから早く弁当だよ!」 ここで弁当を販売していた女工達は騒がしく手を振った。そしてここに到着した菊子は舟から大きな風呂敷を両手で持ち出した。 「重いので、神崎様はそこを避けて……」 「どれ、俺が持つ!く、重い?」 菊子から受け取った彼はこれを川辺にいた娘達に舟を降りずに手渡した。彼が必死に持った風呂敷を受け取った娘は片手で受け取った。菊子は声を掛けた。 「みんな。それで最後よ」 「了解です」 「後、三回ほど舟が来るわ。そこは終わったら掃除をして戻ってきてね」 「了解です!」 そういうと菊子は舟を動かしここを離れた。 「はあ。間に合った」 「おい」 「あ、ごめんなさい。すっかり忘れてしまって」 恥ずかしそうにしている菊子に、清磨はまず座れと菊子を諭した。 「先ほどのは弁当だろう?ここで売っているのか」 「そうです。知り合いのお医者さんの提案なのです」 菊子は申し訳なさそうに話し出した。 「いつもの場所は混雑でとても売れません。そこで舟で観光をしてここで弁当を渡すことにしたのです」 「なるほど、ここなら混雑はないな」 「はい。でも予想以上に売れているので、今届けたお弁当で今日は売り切れなのです」 「すごい人気だな。それにその茶摘(ちゃつみ)みたいな衣装もいいな」 「ありがとうございます」 笠をかぶり藍色の絣の着物に赤い前掛けを付けていた菊子は、恥ずかしそうににうなづいた。 「とにかくこれで今月は何とか神崎様にお金を返せます」 「まあ、それはいいけどな」 「神崎様。まだお時間ありますか」 「ああ」 ここで菊子は立ち上がり舟をこぎ出した。 「帰るのか」 「その前にあやめを見ていただかないと。観光ですから」 必死に漕ぐ菊子を清磨はじっと見ていた。 ……しかし、まじめな娘だな。 「おい、菊子と申したな。なぜそこまで頑張るのだ」 「それは、両親の借金を返したいので」 「しかし、それはお前のせいではないだろう。無視をしても良いのではないか」 指を川に入れて水の線をつくる清磨を菊子は見つめていた。 「そうはいきません」 菊子は風に心を飛ばすように話した。 「このままでは、私の両親が悪いことをしたままのような気がして……だから娘としてちゃんと借金を返したいのです」 「そんなことをしていたら嫁に行けぬぞ?」 「良いのです。私なんか誰ももらってくれませんもの。あ。神崎様、あちらをご覧ください」 「おお。いつの間に」 二人の舟はあやめの花の群生まで来ていた。水の中で静かにささやく青や紫や茜色の花の園に清磨は息を呑んだ。 「これは、美しいな」 「はい。こうやって川から見ると、本当に綺麗ですよね」 清磨が見渡すと、他の観光客は背後の岸辺からこの花を観ていた。川に浮かんだ舟から花を間近で見ているのは清磨だけだった。この特等席に彼は嬉し顔を押さえた。 「ところで。お前がこの観光舟を考えたのか」 「そうなりますね。でもお弁当を売るためでしたけれど」 川から愛でるあやめの世界を独り占めしていた清磨は、目の前の菊子の声にうなづいた。 「そうか。でもこの舟から見る眺めは最高だな」 「良かったです。ではそろそろ帰りましょう」 ……くそ。仕事ばかりで俺の事などどうでもよいのか。 「なぜそのように帰りたがるのだ」 「そんなつもりはありません。神崎様がお忙しいと思って」 眉を顰める菊子に清磨は、慌てた。 「冗談だ。ゆっくり舟をだせ」 「はい」 やがて菊子は櫂を持ち座りながら漕いでいた。その優雅な動きを清磨は見ていた。 「菊子とやら」 「なんでしょう?」 「……そのな。俺の返済はそんなに急がずともいいぞ」 彼の発言に菊子は目をぱちくりさせた。 「でも、いつかは返さないといけないですもの」 「それはそうだが。その、無理をするな、と申しておる」 「……でも」 困惑している菊子の顔がいじらしく見えた清磨は、足を伸ばし菊子の足を軽く蹴った。 「ではこうしよう。お前の弁当を俺の会社に毎日届けろ」 「毎日ですか」 「ああ。少しは売り上げの貢献になるだろう」 冷たい態度であるが優しい言葉の彼に菊子は微笑んだ。 「はい」 「よし!っていうか。もう終わりか」 菊子が船着き場に戻ってくるとそこには仁王立ちでどこか怒っている勇作が、腕を組んで舟の彼を見下ろしていた。 「楽しかったですか」 「まあな」 「若を必死で探していた私は全く楽しくありませんでしたが」 「これは致し方ないであろう?これは調査だったのだ。なあ。菊子」 「は、はい」 急に名前を呼ばれた菊子はどきとしながら、舟を降りる彼の手を取った。 「神崎様。ゆっくりお立ち下さいね。急に立つと危ないので」 「俺を子ども扱いするな」 そう言う彼の腰を菊子は背後から支えた。この時清磨の手を引いた勇作は目を細めて見ていた。 「菊子さん。若ならほおっておいて平気ですので」 「俺の部下は本当に優しくて涙が出るよ」 「ふふふ」 そうして清磨は舟から降りた。揺れる船を押さえていた菊子は、彼の後から降りようとした。すると清磨が手を差し出した。 「ほら、手を出せ」 「はい」 清磨の手を借りた菊子は舟から降りた。しかしなぜか彼はまだ手を掴んでいた。 「あの、神崎様、お手を」 「いや、その」 「先ほどの事は誰にも言いませんよ」 「そ、その事ではない!?」 ……くそ。俺の事など眼中にないのか。 菊子の瞳に自分の色が全くないことが彼は悔しかった。 「よいか。俺の弁当だぞ」 「わかっております。明日からお届けします」 「工場の報告もあるのでな。なるべくお前が持ってこい。よいな」 「はい」 そして彼は風のように去って行った。観光舟の岸に菊子はその背中をじっと見ていた。 「お嬢。お疲れ様でした。休んでください、お嬢?」 「あ、ああ、はい、そうするわね」 ……暖かい手だったな。 彼と握った手の平を菊子はそっと見ていた。なぜか彼の不貞腐れた顔が見えてきた。 ……おかしな人ね。でも、ふふふ。 見上げた空は青かった。川辺に咲くあやめの微笑に目を細めた菊子には南風が爽やかに吹いていた。 完
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