十 こころ良し

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十 こころ良し

青い柳が揺れる小野川は初夏の風で揺らいでいた。この川を行き来する舟の大きな荷物は夏の訪れを告げていた。この爽やかな緑の匂いが濃い空気の中、菊子は舟で流れ着きそして建物に入った。 「こんにちは。お弁当を届けに来ました」 そんな神崎の社員達は忙しそうに仕事をしていた。 ……いつもここは忙しそう。早くお弁当を渡して帰ろう。 「あの……失礼します……今日のお弁当はここに置きますね」 「あ、ありがとう」 多忙な事務員にそう告げると、菊子は机に弁当を置いた。そして帰ろうとした。 「おい、待て」 「神崎様。どうもお世話になっております」 仕事がいっぱいなのか、玄関にやってきた彼はうっすら髭が見えていた。 「挨拶はいい。それよりも弁当だ」 「はい、これです」 「……悪いが茶を淹れて俺の部屋に持ってきてくれないか。勇作もおらぬし皆手一杯なのでな」 「いいですよ」 ……本当にお忙しいそうだわ。 菊子は事務所の給湯室でお茶を淹れて、清磨がいる社長室へとやってきた。 「失礼します」 しかしここで清磨は電話をしていた。 「ああ、申し訳ありません。社長の神崎はただいま席を外しておりまして。あ?帰る時間ですか?少々お待ちください……」 ちらと菊子を見た彼は片眼をつむって誤魔化していた。菊子が笑いをこらえてお盆に湯呑を乗せて運んでいると、受話器を押さえた清磨がし!と指を立てていた。 「……お待たせしました。ただいま確認しまいたが。あいにく今夜は会合がありまして、はい。申し訳ございませんでした……」 そして電話を切った清磨は、自分を見ている菊子にやれやれと椅子に背もたれた。 「何か、俺に言いたいことがあるかな?」 「いいえ。忙しいのですね。あの、ここにお茶を置きます」 すっと湯呑を置いた菊子の白い手に清磨はため息をついた。 「まあ、お前も座れ。飯を食っている間、お前に聞きたい事があるのだ」 「私にお答えできるものでしたら」 清磨が知りたかったのは、この町で商売している人物の関係だった。 「一番仕切っているのは伊能家というのはわかっておる。その次が箕輪家だろう。そこに加瀬家と久保木家があるんだよな」 「そうなりますが、伊能家と加瀬家は親戚です。それに箕輪家はお婿さんなんですが、久保木家の人がお婿に入っています」 「では事実上、伊能家と箕輪家が二大勢力というわけか」 「そうなります、でも別に仲が悪いわけじゃありません」 「なるほどな……ん、この卵焼きうまいな」 「そうですか」 ……この人はいつもお腹が空いているのね。 清磨がもぐもぐ食べる様子を菊子は黙ってみていた。すると彼が顔を上げた。 「そういえば、お前って料亭にいたよな。あの時もそうやって俺が食うのを見ていたな」 「すみません。あの時は商品の開発に必死で」 すると清磨は悪戯に微笑んだ。 「お前は俺の酒を飲んだし」 「飲んでいません。本当です」 「ではなぜ杯が空だったのだ」 「それは」 菊子は清磨の体調を考慮して酒を御椀に捨てていたと白状した。 「やはりお前の仕業であったか」 「お顔の色が悪かったのでつい」 うつむく菊子に清磨は態勢を直して尋ねた。 「……それよりも。お前は三菱館の笹山氏と知り合いなのか?」 ……やっと聞けた! これを聞くために今まで会話をしていた清磨に、菊子はケロリと話出した。 「あ、ああ、それは」 菊子は笹山は上正の担当であり、店によく来ていたと明かした。 「今は別の担当になったようですが」 「それにしてはずいぶん親しい様子であったが」 「そんなことないです。あの、それよりも、神崎様。お弁当のお味はいかがですか」 ………今日は私が作ったのだけれど、どうかしら。 販売用の弁当はいつも同じ内容であったため菊子は清磨には別のおかずを足していた。本日は菊子が作った卵焼きが入っていた。そんな苦労を知らない清磨は、すまし顔で箸を置いた。 「美味かったぞ。この卵焼きも良し。魚もよし、梅干しも良し」 「よかった……」 安堵して胸を抑えている菊子に清磨は目を細めた。それに気が付かない菊子は弁当を片付け始めた。 「おい。明日も頼むぞ」 「はい。神崎様もあまり無理なさらないでくださいね」 ……まったく。お前の方が働きすぎだ。 配達があれば、この娘の休養になると配慮していた清磨は笑みを浮かべた。 「お前もな。気を付けて帰れ」 「はい」 神崎の事務所を出た菊子の足取りは軽かった。こうして菊子は彼に配達をしていた。 ◇◇◇ そんなある日。菊子は加工場にいた。 「おはようございます。おはようございます」 「お嬢、おはようございます」 「おはようございます。あの、お嬢、ちょっといいですか」 「どうしたの」 朝の工場にてキイは菊子にそっと話した。 「実は、私の知り合いでここで働きたいという子がいるのです」 「まあ?それならさっそく斎藤さんに頼んで面接をしてもらいましょう」 そう言って菊子は事務所の戸を開いた。 摺りガラスの戸の向こうで斎藤は書類の整理をしていた 「あ。お嬢、私の眼鏡を知りませんか」 「頭の上に」 「あ?これはしたり!はははは」 窓から入った日差しがまぶしい濃茶色の床を進んだ菊子は、自分の椅子に座った。 「斎藤さん。うちで働きたいという人がいるみたいです」 「それなんですが。あの、そういう問い合わせが殺到しておるのですよ」 「そんなにですか」 ……あんなに辞める人が多かったのに…… 嬉しいがこれはこれで困った菊子は、ふとあることを思い出した。 「そうだわ。うちで雇えないけれど、うちの取引先の魚屋さんやお寿司屋さんで人が足りないところがあったから。紹介してみようかしら」 「そうですね。せっかくですから参考までに」 こうして菊子が社長の上正加工場は人気殺到になっていた。 ◇◇◇ 「タミさん。聞いたわよ。上正さんは大人気だそうね」 「ありがとうございます」 買い物時に知り合いに声を掛けられた潮田タミは嬉しそうにほほ笑んだ。 「本当に素晴らしいじゃないか。みんなお宅を噂しているんだよ」 「まあ、そうですね。主人は老舗の看板を守ろうと頑張っていますので」 褒められたタミは頬染めた。これに相手はうなづいた。 「いやいや。佃煮や弁当まで売るなんて大して知恵者じゃないか」 「……そ、そうですね」 上正の本家ではなく加工場を褒めている初老の女性にタミは苦笑いで返しが、相手は気付かず続けた。 「今さっきだって魚屋に行ったんだけど、若い衆を上正さんに紹介してもらったっていってね。喜んでいたよ」 「そうですか」 「このご時世、自分の事だけでなく他の店まで心配するなんてさ。まさか上正さんは器が違うね」 「……すみません。急いでいるので」 菊子への賛辞が耐えられないタミは、そう挨拶をして帰り道を急いだ。 その目に映る小野川を睨むように歩いていた。 加工場と切り離した上正の醤油屋は、神崎の融資を受けその経営は黒字になっていた。しかしそれは加工場の売り上げの相乗効果によるものであった。 ……くそ、菊子の奴。いい気になりやがって。 菊子に赤字を押し付けて上正だけ助かる予定であったが、菊子は工場を立て直し、さらに上正までも売り上げを伸ばしていた。得意先も菊子を悪く言うものはなく上正の本家としてはすっかり顔をつぶされた気分であった。 この夜、タミは菊子を呼びつけた。 「菊子。お前、何をいい気になっているんだよ」 「私はいい気になってなどおりません」 「その態度が生意気なんだよ」 興奮のままのタミは菊子の頬を打った。指輪をしている太い手は菊子の白い頬に朱を一筋作った。頬を押さえている菊子にタミは激高した。 「良くお聞き!この潮田は、牡丹が娘なんだ!お前じゃない!」 「……痛!叔母さま……」 菊子の後ろ髪をむんずと掴んだタミに、菊子は苦悶の表情を浮かべた。 「わかったか!」 「申し訳、ありませんでした……」 「これ以上でしゃばるな!この厄介者!」 タミはそういって畳に菊子を投げつけた。叔母が去った和室で菊子は痛む唇に触れた。その指は朱色に染まっていた。 ……でも、まだいいわ。これくらいで済んで。 叔父夫婦にとって自分は厄介者だと菊子は自覚して育っていた。しかも亡き両親は借金を残しており、自分はその返済義務を感じていた。 邪魔だと罵倒され憎まれて当然と自分に言いきかせて生きてきた菊子には、今宵の罵倒はいつものことだった。 叔母に打たれた頬は彼女の怒りのように熱く菊子に痛みを与えていた。窓の外で光る星はそんな菊子に悲しく瞬いていた。 そして翌朝の朝食中、タミは笑顔で提案した。 「そうだ。菊子。お前は神崎様にお弁当を届けているんだってね」 「はい」 昨日の夜、顔を打たれた菊子の顔は腫れていたが、叔父家族は何も無かったようにタミの話を聞いていた。 「私は思ったんだ。お前は社長の仕事が大変そうだから、これは牡丹が届けてあげなさい」 「私が?」 「そうよ」 満面の笑みのタミに源次もうなづいた。菊子は黙って彼らの食べ終えた皿を片付けていた。 「そうだな。菊子は忙しいのだから、これは牡丹に任せなさい、わかったな菊子」 「はい」 ……叔父様は神崎様と牡丹ちゃんの結婚を望んでいたし。 拒否権のない菊子は、そう返事をし弁当の配達を牡丹に任せることにした。 この日、弁当を作った菊子は牡丹に説明をした。 「牡丹ちゃん。中身はこれよ、聞かれたらご説明をしてね」 「みればわかるわよ」 説明不要と牡丹は自ら風呂敷でお重を包んだ。そんな牡丹に菊子は続けた。 「あのね。神崎様はいないことが多いの。それに会社は忙しい時はお弁当を届けるだけにしてね」 「いちいちうるさいわね。そんなの言われなくたって分かっているわよ」 こうして牡丹は舟で神崎の仮事務所までやって来た。自分で舟を漕ぐことはない牡丹は上正の使用人とともにやってきた。 「牡丹様、こちらの建物です」 「ふう!じゃ、行ってみるわ。失礼します……」 牡丹が入るとそこは忙しそうに社員達が立ちまわっていた。 「勇作さん!駅前の駐車場の件でお電話が入っていますが」 「折り返し電話すると言ってください。それよりも今日の郵便は届いていますか」 そういって勇作が玄関のそばまでやって来た。牡丹は声を掛けた。 「あの、私は」 「失礼!そこにあるものを取りたいので」 「あ、ごめんなさい」 そう言って彼は牡丹に目もくれず仕事に向かってしまった。思わず使用人が心配した。 「牡丹様、出直しますか?」 「何を言うの!あの、ごめん下さい!」 しかし。電話の音で牡丹の声が消えたのか、事務員はまだそろばんを弾いていた。 「くそ!毎回毎回数字が違う!ああ。イライラする」 「おい。それよりも、銀行に行く時間じゃないか?」 「早く言ってくれよ」 そう言って事務員はまたしても牡丹を無視して出て行ってしまった。これにはさすがの牡丹も切れた。そして唯一知っている勇作に声を掛けた。 「こんにちは、私は上正の娘ですけど!」 「あ?ああすみません、気付かずに」 「それで、神崎様はおいでですか」 「今はいませんよ。申し訳ありませんがその弁当は置いて行ってください、では失礼」 「んまあああ!」 怒り心頭の牡丹であったが、使用人に則され弁当を置いて帰って行った。この後、不在であった清磨が事務所に戻ってきた。 「お、弁当か」 「はい」 「……なんだ?いつもと包み方が違うな。ぐちゃぐちゃだぞこれは」 ここで事務員が菊子ではなかったと彼に教えた。 「香水臭い娘さんでしたね」 「そうか」 ……なぜ、あいつは来なかったのだ。 弁当を頼んで以来、菊子以外が来たことはなかった。これが気になった清磨は弁当を食べずに腕を組んで考え込んだ。 「若。どうされました」 「これはお前が食え、俺はちょっと行ってくる」 「え?若!」 そんな勇作の声を無視し、清磨は仮事務所を飛び出し菊子がいる加工場に来てしまった。 「あ。神崎様」 「斎藤さん、あいつはどうした」 「……お嬢の事ですか、お嬢ならあそこに」 「通らせてもらう」 加工場の裏手に仲間の女工といた菊子を発見した清磨は、思わず声を掛けた。 「おい」 「あ、神崎様、どうしてここに」 「……それよりも。どうしたのだ、その顔は」 「これですか?」 「お嬢、私は向こうで片付けております」 勢いのある清磨を間近に見たキイは、圧倒されるように退いた。自分では顔がわからない菊子に清磨は怒っていた。 「打たれたのか。痛むであろう」 そっと頬に触れる彼の手に菊子は思わず目をつむった。 「それほどでもありません」 「切れているじゃないか……」 菊子は彼の手を外そうと手を重ねた。彼はその手を握った。 「だからお前は今日、来なかったのか」 「いえ、そういうわけじゃ」 「くそ」 彼は思わず菊子の手を自分の口に当てた。 「誰にやられた?借金取りか」 「いいえ、大丈夫です」 ……庇うということは、これは。 「お前が大丈夫でも俺が大丈夫ではない。行くぞ」 「ど、どこにですか?」 彼は菊子の手を握ったまま上正の店までやって来た。店の奥にいた源次は驚き顔で挨拶をした。 「おお。神崎様」 「上正さん、一体これはどういうことですか」 「どういうこと、というと」 「彼女の顔の傷ですよ!これを見てあなたは何とも思わないのですか」 「あ?ああ……」 清磨が言っている意味がようやく理解できた源次はうなづいた。 「神崎さん。どうか気にしないでください。その娘はそそっかしいので。いつも生傷が絶えないのですよ」 「生傷?ではこの傷は自分で怪我をしたと、いうのですか」 「ええ、そうです。なあ、菊子」 「……は、はい」 ……嘘だ。 握っている菊子の手のわずかな震えに清磨は意を決した。 「上正さん。私はあなたに融資をしています。それは彼女の工場にも同様です」 「そうですね」 「彼女は工場にとって重要な人物のはずだ。それなのにこの傷……これは誰がどう見ても誰かに殴られた痕です。これを放置しているあなたが私には信じられない。申し訳ないが、あなたとはこれきりだ」 「え、そんな」 ここで血相を変えたタミがやってきた。事の重大さに彼女は青ざめていた。 「あの、申し訳ございません。今後は叔母の私がそばについておりますので」 「あなたが……」 清磨に睨まれたタミは縮こまった。 「はい」 この叔母の太い指には豪華な指輪が光っていた。清磨は眉間に皺を寄せた。 ……頬の傷には筋がある、おそらくこの指輪の女が彼女を。 許せない思いの清磨は思わずタミに一言言おうとしたが、菊子がぎゅと手を握り返してきた。 「神崎様。菊子も今後気を付けます」 彼を見上げるその瞳は、悲し気でありどこか必死だった。 ……くそ。今はここまでか。 この家族と暮らしている菊子の思いに清磨は一旦怒りを抑えた。 「……では、そういうことで」 そんな二人は勢いで手をつないだまま小野川の柳の下までやってきた。 「くそ!ああ、腹が立つ」 「すみません、私のせいで」 「お前は悪くない!しかし、まったく」 苛立ちで川に向かって思いを吐き出す清磨の背に、菊子はささやいた。 「神崎様、ありがとうございました」 「なに?」 「私、嬉しかったです」 二人に優しい風が吹いてきた。 「……だから。もうそんなに怒らないでください」 「俺はそんな紳士ではない!許せないものは許せん!」 「神崎様」 菊子は思わず微笑んだが、そのまま泣き笑いになっていた。清磨は思わず彼女の頭を撫でた。 「愚か者め。何が大丈夫だ」 「すみません……」 「良いか、俺の弁当はお前が届けろ。じゃないとまた乗り込むからな」 「はい」 すると、彼のお腹がぐうとなった。 「くそ!そういえば弁当を食べてなかった」 ……心配してくれたのね。 俺様清磨の優しさが見えた菊子は、その温かさにうなづいた。 「神崎様。良ければ試作品があるので召し上がりませんか」 「……お前も一緒にならいいぞ」 「はい!」 傷が痛々しい菊子の笑顔に清磨は胸を掴まれた気がした。 「では参るか」 「ええ、今回のはですね。神崎様おすすめのアサリご飯です」 「試食するまでもないな、ハハハ」 笑顔の二人はそういって加工場の奥に足を進めた。小野川からの風は夏の匂いで二人に優しく囁いていた。 完
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