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十一 佐原のくすり
「こんにちは、お弁当です」
「ああ。上正さんですか。そこに置いておいてくれ」
「はい。昨日の器を下げますね」
この日も忙しそうな神崎の佐原営業所にて菊子は事務員に断りを入れ、給湯室に置いてあった空のお重を回収した。そして帰ろうとした。
「う!」
「なんだお前か」
ぶつかった相手は清磨だった。彼はむすとした顔をしていた。
「すみません」
「もう帰るのか」
「はい。お弁当はいつもの場所です」
実は心配で菊子を追ってきた彼は、誰もいない廊下の隅でじっと菊子の顔を見つめていた。
「顔はどうだ?腫れは引いたか?」
「そうですね。もう痛みません」
しかし顔にはまだ傷があった。清磨はこれに顔を暗くした。
「時間があるなら茶を淹れてくれ。すぐに食べるから」
「はい」
菊子は清磨の部屋にお茶を持ってきた。そこには勇作もおり二人は話をしていた。
「おや?もう弁当の時間ですか」
「勇作はいちいちうるさい!俺は腹が減っているのだ」
「あの、本日はこちらです、あら」
勇作にもお茶を出した菊子は、彼が指に包帯をしていることに気が付いた。
「渡辺さん。指を怪我をされたのですか」
「ええ?ちょっと指を挟んでしまって」
利き腕の右手の傷を不便そうにしている勇作を気の毒に思っている菊子に清磨は声を掛けた。
「おい。食べるぞ」
「はい、どうぞ」
「まったく……」
ぶつぶつ言いながら彼は箸を持ち、そして食べ始めた。
「あのな、お前に聞きたいことがある」
「何でしょう」
彼はもぐもぐ食べながら菊子に向かった。
「この辺りの取引先に行くと、店に必ずキュウリが飾ってあるだろう」
「確かに若の言う通りです。菊子さん。あのキュウリは何ですか」
「川太郎さんのことかしら」
「川太郎?!」
清磨と勇作は不思議そうな声でそろえた。菊子は微笑んだ。
「そうです。河童の川太郎さんの事です」
菊子は説明を始めた。それはこの地の伝説だった。
「昔、下総の新島領に河童の川太郎が住んでいるという伝説がありまして。キュウリに河童様と書いてお供えしているのですよ」
「河童?そんなものいるはずないだろう」
驚く清磨に勇作は顎に手を添え考えた。
「いや、いてもおかしくない雰囲気ですよ。なるほど。では川の事故に遭わないようにお供えしているのですね」
「そうです。他にも面白い話があるのですよ」
菊子はそっと窓から川面を見た。
「昔、若い衆が川太郎の住む辺りで水草を取っていたそうです。これに腹を立てた川太郎は、男を川に引きずり入れようとしたのですが、男はこの水草で病人のための薬を作ろうとしていると聞いて感心し、その薬の作り方を教えてくれたそうです」
「だが、どうせ民間療法だろう」
「ですが若、昔は医者もいませんから需要があったと思いますよ」
この日は彼が食べ終えるまで待っていた菊子は彼の空のお重を持ち、帰宅した。その翌日、彼女は弁当とともにあるものを差し入れした。
「なんだこれは?」
白い袋を手に取った清磨はほらと勇作に手渡した。
「『骨肉薬』とありますね。骨つぎ、打ち身の塗り薬。昨日の河童の軟膏ですか」
留守の間に届いていた弁当と薬を見た清磨は、勇作に向かった。
「勇作よ。この薬はお前に持って来たんじゃないのか」
「私にですか?」
「ああ。お前の指を気にしていたじゃないか」
「河童の薬ですか」
黄色い塗り薬に勇作は考え込んでいたが、清磨はそれを押し付けた。
「塗ってみろ、今すぐ」
「ですが。これは河童じゃないですか」
「ばか!これは河童じゃないだろう。河童は作り方を教えてくれただけで、その薬が河童ではないぞ」
「しかし、変なにおいがするし」
必死に抵抗していたが、勇作は清磨に言われてこれを恐る恐る指に塗った。
そして彼らはその夕刻、取引先に出向いていた。そこで商談を終えた時、相手は勇作の指を見ていた。
「もしかして。それは『骨肉薬』ですか。色と匂いでそんな気がしますが」
「へえ。?良くお分かりで」
感心する清磨に反し、勇作はまだ嫌がっていた。
「ありがたいのですが、自分はこの匂いがちょっと……」
とほほ顔の勇作に相手はびっくり顔を示した。
「やっぱりそうのですか!それをどこでお求めですか?」
「え」
「これの事ですか」
「ええ!もちろんです」
驚く相手に清磨と勇作は驚いた。相手は必死だった。
「それは貴重でなかなか手に入らないので、高値で取引されているのです。どうやって手に入れたのですか」
「まあ、その、なんだ」
困っている清磨であったが、勇作は澄まして答えた。
「たまたまですよ。取引先の家に少しだけ残っていたのを、親切に塗ってくれただけです」
ぬけぬけと嘘をつく勇作の隣に座っていた清磨は、呆れた顔でため息をついた。そんな二人に相手はまだ食い下がっていた。
「しかしですね。それはどこの店ですか?」
「そうは言いましてもね。薬はこれで最後でしたよ」
「そうですか」
残念そうな相手に素っ気ない返事をした二人はこの場を後にした。そして帰りの車で話し合った。
「その河童の薬はそんなに貴重なのだな」
「まあ、地元では人気、という事でしょうね」
「ふーん」
二人はあまり気にせずこの日を終えたが、翌日、神崎事務所に問い合わせがあった。それは河童の薬の件だった。勇作はこれに対応していた。
「ですから。当社は薬屋ではありません。そういう話は薬局にどうぞ」
そう言って電話を切った勇作に清磨は尋ねた。
「勇作、また薬の問い合わせか」
「ええ。朝からこればかりです。噂になったのですね」
呆れていた勇作を清磨はじっと見た。
「ところでお前、例の指はどうした」
「これですか?」
「痛そうにしていたが、今はどうなんだ」
「そういえば」
痛みが薄れていた事に気が付いた勇作は、そっと包帯の指を見ていた。
そんな時、彼女の声がした。
「来たぞ!勇作、捕まえてこい」
「そうですね。菊子さん!待ってください」
勇作はやってきた菊子を見つけ社長室に連れてきた。お弁当を携えた菊子は勇作の指を見ていた。
「渡辺様。お傷の様子はいかがですか」
「おかげさまで痛みが引きました。ところでこの河童の薬についてですか」
仲良く話している二人に清磨が声を掛けた。
「おほん!菊子、俺の弁当!」
「はい。ただいま用意します」
「若。そんなに怒らなくても」
「うるさい!」
こうして彼が食べている間、説明をした菊子の話に二人は驚いた。
「え?ではこの薬は菊子さんが作ったのですか」
「お静かに!ええ、そうです。祖母の秘伝なのです。今回私も薬を使ったので、はい、お茶です」
「……昨日聞いた話では、その薬は高値だと聞いたぞ」
「そうかもしれませんね」
菊子はお盆を抱えて思い返した。
「材料になる水草が今はなかなか採れないので、薬をたくさん作れないと思います」
「そんな貴重なものだったのですね。菊子さん、ありがとうございます」
「いいえ。お世話になっているので」
……勇作の奴。河童の薬は臭いと申しておったのに。
弁当を食べていた清磨は仲良く話す二人にイライラしていた。そんな中、勇作は用事があり部屋を出た。清磨はまだ機嫌を悪くしていた。
「お味はいかがでしたか」
「美味かったが、あのな。菊子」
「はい」
まっすぐな目に彼は思わずドキとした。
「あのな。その、お前は親切かもしれないが、男はすぐ勘違いするから気を付けろ」
「勘違い?それはどういう意味で」
清磨は目の前で弁当のお重を片付けていた菊子の手を思わず握った。
「好意を寄せていると相手が思ってしまうという事だ。だから、そんなに優しくするな」
「私はそんなに優しくないですよ」
……お前が優しくないというなら、他の女はみんな鬼だぞ?
本気でそういっている菊子を清磨は許せなかった。
「とにかく!他の男に優しくするな。わかったか」
「……はい」
……私。そんなに軽率に見えたのかしら。
清磨の気持ちが見えない菊子は、彼の怒った顔を見て帰宅した。
翌朝。工場にて仕事をしていた菊子はどこか上の空であった。これをキイが心配してきた。
「お嬢、神崎様に何か言われたのですか」
「うん。なんだか怒っていたの」
「何をしたのですか」
理由を聞いたキイは、はあとため息をついた。
「河童の薬……そうですか、それはつまんない焼きもちですよ、きっと」
「焼きもち?では神崎様も薬が欲しかったのかしら」
「そうじゃないと思いますよ」
日頃の清磨の態度から、菊子への思いを感じていたキイは、これをどうやって菊子に教えるか考えた。
「神崎様はきっと、お嬢に特別扱いして欲しいのですよ」
「しているつもりだけど」
「それでは足りないのですよ、そうですね……」
キイはちょっと考えた。
「お嬢。神崎様って、そもそも感じ悪いですよね」
「そう?」
「ええ。いつも偉そうですよね」
「そんなことないわ」
キイの誘導尋問を知らずに菊子は彼を思い出していた。
「口は悪いけれど、お優しいのよ」
「そうはみえませんが」
「キイは知らないのよ。あの方は忙しいからそんな印象だけど、本当は優しいのよ」
「本当に?」
「嘘じゃないわ。いつも私に気遣ってくれるし、態度は悪いかもしれないけど私は」
「……そこまでわかっているなら大丈夫ですね」
「え」
呆れていたキイはやれやれと立ち上がった。
「神崎さんはお疲れなので、お嬢に甘えているだけですよ」
「そうなの?」
「ええ、あんまり拗ねているなら、そうですね、あの河童の薬を顔に塗ってやったらどうですか」
「ケガをしていないのに?そんなことをしたら匂いが大変よ」
「あははは」
二人はそうけらけら笑っていたが、キイは柱時計を見た。
「さて。そろそろお弁当を届ける時間じゃないですか」
「あ、そうだ。行かなきゃ」
「はいはい、行ってらっしゃい」
こうして見送られた菊子は、彼に弁当を届けにやって来た。
「こんにちは……あ?渡辺さん」
「あ、来た。どうか若をお願いします。お腹が減って機嫌が悪くて」
「わかりました」
……それは大変だわ。早く届けないと。
菊子は勇作と入れ替わりに部屋に入った。その部屋で神崎は万年筆を持ち書類をカリカリと書いていた。
「失礼します」
「……」
「お弁当をここに置きますね」
「……菊子よ」
「はい」
彼は顔を上げずに話した。
「何か気づかぬか」
「お部屋ですか……あ」
窓辺にはキュウリが飾ってあった。菊子はそれを見つめていた。
「うわ?ちゃんと『川太郎さんへ』って書いてありますね」
「俺が書いたんだ。間違って勇作が食わないように」
「まあ?ご冗談を」
笑顔の菊子に彼もようやく顔を上げた。
「ふふ。まあいいか。弁当にしてくれ」
「はい。今日は神崎様のお好きな煮物が入っていますよ」
いそいそと支度をする菊子に彼は目を細めていた。
「そうか。ではお前も座れ」
そして菊子は今日も清磨が食べるのを側で見ていた。
「今日もな、お前に聞きたいことがあるんだ『利根川に過ぎたるものが二つある、成田不動に久保木清淵』の久保木とはなんだ」
「ああ、それは江戸時代の学者さんの事ですね」
「そうか学者か。てっきりまた河童かと思ったぞ」
「まあ?」
朗らかに笑う菊子に彼も微笑んだ。
……ああ。やっと顔の傷が消えた。よかった。
正午の光が差す事務所に二人の笑い声が響いていた。彼らの心は優しい色に染まっていた。
完
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