一 つぼみの涙

1/1
前へ
/29ページ
次へ

一 つぼみの涙

『……きんす、どんす、あやめの茶屋で……』  利根川から優しく流れる小野川を、船頭の菊子は小舟を進ませていた。童歌が踊るように光る舟には農家から仕入れた藁が山盛り積まれていた。この舟に立つ菊子は優しく櫂を動かし美しい水紋を描いていた。 『姉さん達がお化粧なさる……きんす どんす、あやめの茶屋で……』  菊子は額の汗を拭いながら眩しく光る川に目を細めていた。川の沿いに並ぶ柳の木が囁く風は心地よかった。 ……良い天気だわ。 青い空から聞こえるひばりのおしゃべりに菊子は笑みを浮かべた。そしてまた童歌を歌いながら小舟を進ませた。やがて実家近くの桶橋(とよばし)の船着場に到着した菊子は、そっと板の岸に立った。そして舟の綱を柱に縛ると元気よく階段を七段駆け上がり屋敷に入っていった。  ……さあ、お夕食を作らないと……  利根川まで仕事で出かけていた菊子の楽しいひと時は終わり、今日も休む暇もなく家事を始めていた。  時は大正時代。千葉県の佐原(さわら)の町は、地元の特産品の多くを東京に販売し栄えた町である。『お江戸みたけりゃ佐原にござれ、佐原本町江戸まさり』と謳われたその証拠に幕末期の江戸の実戸数は一四四〇軒とされているが、ここ佐原は三千軒とされていた。またある資料では「日本国中、正月に商売ができるのは伊勢の山田と下総の佐原である」と記されたほどであった。 こうして繁栄しているこの町には江戸時代から小野川で荷を運搬した商いが行われ多くの多くの商家が並んでいた。 潮田菊子はその一つの屋敷の台所にて食事を作っていた。そこにこの家の奥方が顔を出した。 「菊子。お前。ここにあった鯛焼きはどうした」 「私は知りません」 「こいつ!」  養母に蹴られた菊子は床に倒れた。養母は怒りのあまり肩で息をしていた。 「出せ!食ったんだろう」 「いいえ。食べていません」  ……あったことも知らないわ。  仕事から帰った菊子は休む間もなく食事を作っていた。そんな鯛焼きの事を知らない菊子に義母は鬼の形相で迫った。 「言い訳しやがって」 「きゃあ」  足蹴にした養母のタミは、鬼の目で菊子を見つめた。 「おお嫌だ?お前を育ててやったのに。恩を仇で返すなんて」  ……ああ。どうすれば信じてくれるのかしら。  この屋敷に起こる面倒な出来事はいつも養女の菊子のせいだった。タミはこうして菊子のせいにし、今日も心を静める材料にしていた。 「その眼。恐ろしい……涙なんか流して」 「叔母様。私は本当に知らないのです」 「お前は本当に嘘が達者だね」 「あら。お母様。どうしたの?」  この場にこの家の娘の牡丹が顔を出した。一日力仕事をしていた菊子と違いう同年齢の牡丹(ぼたん)は、高価な着物を着ていた。そんな牡丹はなぜか豆絞りの手ぬぐい越しにたい焼きを手に持っていた。タミと菊子は彼女を見つめた。 「まあ牡丹ちゃん。あなた、その鯛焼きはどうしたの?」 「ああ。これ?学校の宿題にちょうど良いと思って」  美麗な姿の牡丹はケラケラ笑った。 「ほら。うちは水産加工の会社をしているでしょう?だから美術の先生が、魚拓(ぎょたく)を取ってきて欲しいって言うのよ。でもね。生の魚は臭いからこれで良いかなって」  墨がべったり着いた鯛焼きを手にした牡丹は面倒そうに話した。タミはそんな娘から鯛焼きを受け取った。 「呆れた。それであなた。この鯛焼きに墨をつけて魚拓にしたの?ほほほ」  牡丹とタミはケラケラと笑った。この食べ物を粗末にしているタミと牡丹を菊子は黙って床を見ていた。髪をひとすじ乱し、痛みを堪える菊子を牡丹は冷たく微笑んだ。 「ねえ、お母様。この鯛焼き、美味しそうだと思わない?」 「あ、ああ?そうだ。ちょうどよかった。菊子。お前、お腹が空いたでしょう」 「え」  倒れている菊子に二人は悪魔の微笑みで迫った。 「お腹が空いているでしょう?ほら、この鯛焼きをお前にくれてやるわ」 「牡丹は優しいわね。菊子。ちゃんとお礼を言いなさい」 「あ、あの」  ……そんな!墨が付いた鯛焼きを食べろだなんて……  立ち上がった菊子はひとまず頭を下げてこれを受け取った。その震える手は水仕事で荒れ、その腕はぶつけたのか痣だらけであった。しかし二人は菊子に迫った。 「ほら。食べなさいよ」 「菊子。食べ物を粗末にするんじゃないよ!」 「でもこれは……墨がついていて」  墨汁で汚れた真っ黒な鯛焼きは、とても食べられる状態ではない。しかしこの時、牡丹はこれを菊子の口に押し込めた。 「う?」 「さあ!食べなさいよ!あんたにはもったいないくらいよ」 「菊子。吐き出したら承知しないよ」 「う、ううう」  無理矢理口に押し込んだ牡丹の所業に菊子は涙が出てきた。 「やだ?本当に食べたわこいつ」 「卑しいこと。誰に似たのだろうね」  二人の笑いを背にした菊子は口を抑え急ぎ台所に向かった。そして口を濯いだ。冷たい井戸水が通るポンプの蛇口から流れる水に口の中を流す菊子は、一緒に涙も流れていた。 ……ああ。どうしてこんなに私を。   自分が養女であるため叔母と従姉妹に憎まれていると知っていた菊子は、こうして今日も心を収めた。そして息が整った菊子は手拭いで顔を拭くと、冷たい窓からそっと黄昏の夕陽を眺めていた。そこに流れる雲は涙色に見えていた。 ◇◇◇  江戸時代より小野川の流れを使った水運で栄えた町は日本地図を制作した伊能忠敬の屋敷があるこの町である。河岸問屋や醤油、酒造などの商店が軒を連ねていたこの町の潮田家は屋号を上正(うえまさ)といい、醤油屋を営んでいた。創業は寛政十二年の老舗であった。 今から十年前、この上正は菊子の両親が後を継ぎ経営をしていた。幸せな日々であったが家族で乗った遊覧船の事故により両親は亡くなってしまった。生き残った菊子は、その後、後を継いだ叔父夫婦に育てられた。  血の繋がった親族であったが、菊子の両親は亡くなる前に多額の借金をしたと言われていた。さらに叔父は家を継ぐのを嫌っていたため、生き残りの菊子を呪うように辛く当たっていた。    そんな或る日。菊子は養父である叔父の潮田源次に奥座敷に呼ばれた。 水仕事をしていた菊子は前掛で手を拭き、叔父のいる部屋に入った。叔父の源次が厳しい顔をしているのはいつものことだった。 「菊子。これから話すことは重要だよ。よく聞きなさい」 「はい」  叔父の真顔の前に正座の菊子は息を呑んだ。 「我が上正は佃煮の加工をしている事はお前は当然知っているな。お前も工場に手伝いに行っているし」 「はい」  上正の社長である叔父の潮田源次(しおたげんじ)は、醤油だけではなく霞ヶ浦で取れる小魚やシジミの佃煮なども加工製造していた。そんな彼は面倒そうに火鉢の前で煙管(キセル)を取り出した。 「……だがな。今は採算が合わない。よって今度、うちは他の会社から融資を受けることになった」 「融資。叔父様。それは会社を売るのですか?」 「違う。これは提携するだけだ」  源次は打ち消すように煙管に火を点けた。 「お前は詳しいことは知らなくて良い!だがな、この融資を受けねば上正は危ういのだ。だが、これをするにはどうしてもやらねばならないことがあるのだ」  菊子は息を呑んだ。正座の真っ直ぐな目に、源次は言いにくそうに続けた。 「そ、そのためにだな。いいか?佃煮の加工場は、子会社にして上正と切り離すことにした」 「そんな?加工場はお爺様が始めた大事な工場で」 「うるさい!お前に言われなくともわかっておる」  源次は煙管の煙を吐いた。 「そもそもだ!お前の親が死んだのが悪いのだ!俺は次男で、兄貴がここを継ぐはずだったのに。そのせいで俺は、絵描きの夢を捨てて、こんな会社を継ぐ羽目になって」 ……ああ、まただわ。 源次のいつもの愚痴に菊子は悲しくうつむいた。菊子の父は温和で優しく、亡くなった今でも人に慕われる人物であった。 その父が急死し、家督を継がされた叔父に菊子は泥のように謝るしかなかった。 「すみません。この通りです」 畳に土下座する菊子に叔父は、興奮を抑えて言い放った。 「もういい。だから今回、お前に責任を取らせることにした」 「責任ですか」 「そうだ」  彼は煙管を置くと、一升瓶の日本酒を湯呑みに注ぎ始めた。驚きで顔を上げた菊子はその様子を見つめていた。 「いいか?この融資が受けられないと我が上正が潰れてしまうのだ。だからお前を加工場の社長にしてやる」 「え?私が、社長に」 「ああ。そこでお前は倒産しろ。そうすればそれでお終いだ」  どこか自暴自棄の彼は酒をぐっと呑んだ。 「赤字は全て加工場に被せて、上正の赤字を軽くするのだ。融資を受けるにはこれしかないのだ」  ここで菊子は真一文字の口を挟んだ。 「叔父様。菊子はどうなっても構いませんが、工場の従業員さん達はどうなるのですか」  彼らの事を思う菊子はただ正座の膝の上の拳を握った。そんな菊子を叔父は鼻で笑った。 「知らん」 「知らんって」  顔を上げた菊子の必死の顔を無視するかのように源次はまた酒を注いだ。 「放っておけ。仕事は他にもあるだろう」 「でも、みなさん、家族がいるのに倒産だなんて」  実際、工場で働いている菊子は仲間達の顔を思い出していた。工場で働く者は家族の暮らしのために働く女性ばかりであった。しかし源次は菊子の憂いに面倒そうに眉を顰めた。 「家族ならこっちにもいるぞ」 「叔父様」    彼は酒を煽った。 「ふう。全員を助けるのはもう無理だ。悪いが本社の従業員だけ守っていくしかないんだ」 「そう、ですか」  ……そんなにお金が無いなんて……  叔父家族の贅沢なお金の使い方を知っている菊子はこの事実に衝撃を受けていた。「蝶よ花よ」と育てられた従姉妹の牡丹に反し、菊子は幼き頃から粗末に扱われ加工場で過酷に働かされていた。 それも亡き両親の残した借金を返済のためであったが、今の話を聞きながら俯き着物をぎゅと掴む菊子の様子に気がついた源次はつい、口を開いた。 「……そうだ菊子。お前、加工場を無事に倒産したら、これから先、自由にしてやるぞ」 「本当ですか」 「ああ。この家を出て好きにするがいいさ」  彼は自嘲気味に話した。 「だがな。そうしたければ、倒産しろ。それが条件だ」 「……はい」  ……そう返事するしかないわ。  選択肢などない菊子にとって叔父はどこまでも冷酷だった。菊子ははだた心を凍らせ俯いていた。すると廊下から足音がし、襖が開いた。 「あなた。お話は終わりましたか?」 「ああ」  この時、タミと牡丹が部屋に入ってきた。嬉々としている二人は源次に寄り添った。 「ねえ、ねえ、お父様。その神崎(かんざき)様って。どんな方なの?」 「素晴らしい青年だ。お前に相応しい紳士だよ」 「牡丹。さっき写真を見たでしょう?素敵な人ですよ」  ……今は、上正の窮地のはずなのに、この人たちは……  親子三人は他の話に盛り上げっていた。今まで倒産するように話していた叔父の現実から目を逸らした笑顔に菊子は悲しく立ち上がった。加工場の事など何も思っていない彼らに怒りすらわかない菊子を無視し、牡丹は頬を染めて父に甘えていた。 「お父様。神崎様って。うちと提携を結んでくれるのでしょう?それなら、私って将来は神崎商社の奥様ってことなのかしら?」 「まあ。牡丹ったら気の早いこと!おほほ」  ……提携先の商社?ああ、今回の融資の方と牡丹ちゃんは、そんな話があるのね……  三人の幸せな会話の中、部外者の菊子は背を向けた。叔父親子は楽しそうに語っていた。 「ああ。神崎君は資産家だ。彼ならお前も幸せになるだろう」 「嬉しい!大好きお父様」 「こらこら」 「ほほほ。あ?菊子。早く夕飯の支度をし!まだお米を研いでいないだろう」 「はい……」  家族団欒の中、菊子はそっと客間を出た。窓の外には蕾を称えた柳が揺れていた。 ……春は、もうすぐそこなのね。でも私は、私の春は……  しかし、考えても無駄な菊子はここで考えることをやめた。 菊子はそっと台所に向かった。如月の夕暮れは春をまだ彼女には見せてはくれなかった。 一話「蕾の涙」完
/29ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3498人が本棚に入れています
本棚に追加