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S S 影を忍んで
「勇作。お前がそれを運ぶのですか」
「奥様。自分は平気です」
「なりません。お前はまだ子供なのですよ」
彼女はそう言うと、勇作の仕事を取り上げた。
「それよりも清磨が呼んでいるわ。本を読んであげてちょうだい」
「はい。奥様」
神崎号蔵に拾われた勇作は、当初は小姓として屋敷にいたが、賢い子供であったため大人の仕事をさせられていた。この事を神崎の奥方はいつも気にしていた。
そんなある日。奥方は病のために布団に臥せっていた。勇作は薬を届けに寝床にやってきた。
「ああ、勇作かい」
「奥様。薬はここにございます」
「清磨はどうしているの?ちゃんとご飯を食べているかしら」
「はい」
心の病により奥方は食が細く、消えそうな声で息子の事を案じていた。あまりの痩せた姿を息子には見せたくないと言い清磨に逢うのを避けるようになっていた。
「若は元気です」
「そう。あのね、勇作に頼みがあるのよ」
彼女は青白い顔で勇作を見た。それは遊覧船事故についてだった。
「清磨はあまりの恐ろしさで事故の事を忘れてしまっているけれど。いつか思い出すかもしれない。でも私はずっと思い出さない方が清磨のためだと思うの」
「はい」
「だからね。お前は知っているでしょうけれど清磨には父親が犯人だって、分からないようにしてほしいの」
そう言って彼女は震える手で勇作の手を掴んだ。少年の勇作はただうなづくしかできなかった。
その後。彼女は亡くなり葬儀が終わった。母を亡くした清磨の落ち込みは例えようもないものであった。そんな彼を勇作はいつもそばにいて支えた。
そんな清磨は神崎家の後継者として立派な青年に成長した。
「え?若。佐原に行くのですか」
「ああ。あの水郷の町のせいで母上は病で亡くなったのだ。俺は復讐してやるのだ」
父親の罪と母親の苦悩を知らない彼の行動を勇作は全力で阻止しなければならなかった。
……まずい。このままでは。
◇◇◇
「おい!勇作」
「渡辺さん、大丈夫ですか?うなされていたので起こしてしまいました」
「……すみません。寝てしまったのですね」
佐原支店の神崎商社。仕事が暇になった昼下がりの勇作は、つい眠っていたが、悪夢で目覚めた。新婚の二人は勇作を案じていた。
「まったく。また昔の夢か」
「これ、麦茶ですよ。どうぞ」
「面目ない事です」
そういって麦茶を飲んでいる勇作を清磨はじっと見ていた。
「ところでお前にまだ詳しく聞いていなかったが。お前は俺から菊子を遠ざけようと色々したんだったな」
「清磨さん。それはもう言わない約束よ。渡辺さんは清磨さんを思ってしていた事ですもの」
「いいのです菊子さん。確かに私はひどい事をしたので」
「もちろんそれを責めるつもりはない。俺が知りたいのはお前が何をしたのか、という事だ」
「まあ、そうでしょうね」
勇作はぽつぽつと話し出した。
「まず。私は菊子さんが若の恩人だと知ったのは匝瑳会の後でした。それまでは佐原に近づけないように必死でしたが何もしても逆効果で……でもそうですね……橋渡しの弁当販売の妨害は私が犯人です」
「まあ」
「やはりな。そして次は?」
「……若にロミオの恰好をさせたのも、イトさんの件もそうですし。菊子さんが芸者をしたことがばれたのも全部私の仕業です」
「ひどいわ」
「済まぬ菊子。勇作は手段を選ばぬ男なのだ。して、勇作、お前、菊子に結婚を申し込んだことがあるだろう。あれも妨害のつもりか」
「よく覚えておいでですね。確かにそんなことも言いましたね……」
ぬけぬけと話す勇作に菊子は信じられないという顔で彼を見た。
「あのですね。もし私が求婚を受け入れていたら、渡辺さんはどうするつもりだったのですか」
「あの時はとっさでしたので。そこまで考えていませんでしたね」
「まあ、あきれた?」
「まあまあ菊子。では本気ではなかったのだな」
「もちろんです。まずは若が一番気がかりですので」
菊子はここでため息まじりで部屋を出た。二人だけの部屋で清磨は語った。
「そうは言ってもな、お前は菊子を探す際、俺を水郷大橋に向かわせたであろう?お前、菊子があそこにいる事を知っていたのではないか」
……おやおや。勘の鋭い事よ。
菊子の行き先だと確信はなかったが、そんな噂を聞いていた事を勇作はそっと隠した。
「そんなことはありません。菊子さんを見つけ出したのは若で、私ではありません」
見つめ合った二人に沈黙の間があった。
「……まあそういう事にしておこう」
「若、もういいですか。さて、と。ちょっと油定さんに契約の件で行ってきます」
そんな彼が事務所を出た時、菊子がサッパ舟に乗るところだった。
「渡辺さん。どちらまでですか?」
「油定さんまでですが、一人で行きますよ」
「私もそちらにいきますので、どうぞ」
こうして菊子と勇作は一緒に小野川を舟で進んでいた。
「そういえば奥様。若様が『足が痛い』と言っていましたが、病院には行きましたか?」
「あれはですね。靴の奥に紙屑が詰まっていたせいのようです」
「首が痛いと言っていたのは?」
「下着が後ろ前でしたので、首回りが窮屈だけだったようです」
「そうですか。まあ、大事に至らずによかったです」
「ふ、ふふふ」
「奥様?」
笑い出した菊子に勇作は驚きの顔を上げた。
「渡辺さんは本当に清磨さんが好きなのですね」
「ええ。好きですよ。純粋でまっすぐで、正義感あふれる、男の私から見ても惚れ惚れする良い男です」
「あらら。それを本人に言ってくださいませ」
「だめですよ。図に乗りますから」
「ふふふ」
二人に静かな風が流れた。
「でも。これで私も安心してこの地を去れます」
「え」
「来月から私は支店の方に参ります。若をよろしくお願いします」
「……それは、清磨さんもご存じなのですか」
「もちろんです。本当は私のような者は、許されるべきではありませんから」
「渡辺さん……あ?そうだわ」
菊子は胸元からそっと袋を出した。
「これ。どうぞお持ちになって」
「また河童の薬ですか」
「河童じゃありません。私が作ったものです。渡辺さんはよくケガをされるから」
勇作はそっと受け取った。紙の袋は菊子のぬくもりがした。
「ではありがたく」
「いつでも、清磨さんに会いに来てくださいね。きっとお寂しいでしょうから」
……寂しい、か。
勇作は菊子をまぶしく見た。
「渡辺さん?」
「奥様がいれば大丈夫です。あ。前から舟が」
「あらら混んでいますね。でもあと少しなので、このままゆっくり行きましょうね」
「……仰せのままに」
日差しを照らす小野川に柳の枝は爽やかに揺れていた。まるで彼の青い思いを流すように、静かに優しく流れていた。
fin
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