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二 冷たき風
「で?この金を返すと」
「はい。確かに預かっていましたが、ご希望の土地は買えませんでしたので、神崎様にお返しします」
「……そうですか」
千葉県、匝瑳郡八日市場町には銚子の海の風が吹いていた。その本通りの黒壁の重厚な土蔵造りの社屋で神崎清磨は部下に金が入った封筒を受け取らせると椅子に背持たれた。取引相手は椅子に座ったまま頭を下げた。
「この度は神崎さんのご期待に添えず大変申し訳ない事をしました。私もこの金額で購入できると思っていましたが、まさかこれ以上の金額を出してあの土地を買う人がいるとは思いませんでしたよ」
悔しそうな男に対し、清磨もため息をついた。
「確か、それは『六角企画』でしたね。落札をした会社は」
「そ、そうです」
「彼らはどうやってそんな大金を用意したのでしょうね」
「それは、銀行の融資などではないですか」
「……こういう良い方法がありますよ」
机の上で指を組んだ清磨は静かに語り出した。
「まず。黒幕の人物は,あの土地を買いたい人物を見つけます。そしてその相手に言うのです『良い土地があるので買わないか。金を預けてくれれば買ってきてやる』と」
「神崎さん、それは」
「まあ言わせて下さい。そして黒幕はその人物から金を預かります。そしてその預かった金額と手持ちの金を合わせて土地を購入すればよいのですから」
この話に相手は額の汗をぬぐった。
「恐れ入りながら、その後はどうなるのですか?預かった金は返さねばなりません」
「簡単なことですよ」
黒髪の間から瞳を輝かせた清磨は不適に笑った。
「購入した土地を高く売るのです。その売り上げから預かった金を支払えば、何も問題はありませんから」
どこか嬉しそうな清磨は立ち上がりそっと机の上の書類を手にし、とんと人差し指で弾いた。
「まあ、転売先は買う前から決まっていたからできたことですね。これは『人のふんどしで相撲を取る』ってやつで、実に見事ですよ」
どこか感心している清磨を前に、取り引き相手は目を伏せた。
「神崎さん。まさかそれは私の事だというのですか」
「それしかないのでね」
すると清磨は二人の間のテーブルに書類をバサと置いた。
「そこにある融資の書類には、あなたの名前と六角企画の社長の名前が連名にあります。あなた達が親密なのは明確だ」
「……誤解されているようですが、私はその、六角企画とは関係ありませんよ」
「お話し中、失礼します、若。ご報告です」
ここで清磨は部屋に入って来た部下から耳打ちを受けた。彼はうんうんとうなづいていた。
「……ご苦労であった。あの今、報告が入りましたがあなたの会社に捜査が入っているようです」
「なんですって。そ、それは何の罪で」
清磨は呆れたように両手の平を広げ肩をすくめた。
「脱税のようですよ。どうやら金もないのに高額な土地を買っていたことが疑われているご様子」
「脱税?私が」
「あなたの実家も捜索されるでしょうね」
「実家……あそこは年老いた母親しか住んでいません。ああ、なんてことだ」
相手は血相を変えて帰り支度をした。清磨は楽しそうにほほ笑んだ。
「お気の毒ですが、その家には二度と住めませんね。世間に後ろ指を指されるのは間違いないですし」
「くそ!」
「お気を付けて」
そう言って男が席を立ち、嵐のように去って行った。静まり返った部屋には部下の渡辺勇作のため息と清磨の笑い声が支配していた。
「まったく。若。笑っている場合ではありませんよ。本当にこれで良かったのですか」
「さあな?後は警察の仕事でだろう?俺は知らん」
そういって清磨は自分の椅子に座り優雅にお茶を飲んだ。勇作は首をかしげていた。
「でもですね。本当は警察が探しても隠し金の在り処はわからなかったじゃないですか」
「勇作、だから本人に探させるのだ。今頃は血相を変えたあいつが隠し金を確認する様子を、警察はのんびり待っているはずだ」
今回の詐欺事件を許せなかった清磨は、警察に密告し事件を調べていた。しかし金や帳簿が発見できず警察は困惑していたため、清磨は罠を仕掛けたのだった。
こんな清磨は窓の外の景色を見てほほ笑んでいた。
黒髪の白い顔、長身の張った肩は品の良さを醸し出していた。しかし、その美麗な顔からは冷酷な空気が見える青年だった。仕事優先の冷酷な男はどこか挑戦的で他者をあざ笑う雰囲気を持っていた。
そんな神崎の部下の渡辺勇作は、彼よりも二歳上であるが童顔で優しい雰囲気の青年である。孤児だった勇作が路上生活をしていた際、清磨の父親の号蔵の落とした高価な煙管を正直に届けた事がきっかけで、神崎の従者となった。
そして現在はわがままな清磨の秘書として彼の仕事を手伝っていた。事業の推進のために他者には厳しく心を閉ざしている清磨であったが、勇作には唯一心を許していた。
こんな清磨の作戦に勇作は呆れていたが、彼はもう次に進んでいた。
「それよりも。勇作。佐原の例の店はどうだ」
「ええと、今用意しますが、ちょっとこれについてお聞きしたいのですが」
「どれについてだ?」
勇作は資料をまとめながら頬杖を付いている清磨に尋ねた。
「若。私は若が進めている乗合自動車の事業の事は存じております。しかしなぜ地元の老舗の経営状況を調べるのですか」
「……勇作。あの町は舟運で栄えている町だとは知っておるな」
「はい」
清磨は眠そうに椅子に背持たれた。
「あの町は利根川州域で獲れた農産物と水産物を船を使って集め、それを鉄道で東京まで送っておる。だが我々が計画しているのはここ八日市場の絹製品を佐原へ車で運ぶものだ」
「そうですよね。若の構想はその時に荷物だけではなく人も運ぼうというものですよね」
「ああ。だが佐原では反対する動きがあるようだ」
「反対ですか?でもなぜ」
「理解不足だな」
清磨は面倒そうに頭をかいた。
「我々の乗合自動車が普及すると、船が使われなくなると思っておるようだ」
「おかしいですね。船の水路と、車が通る陸路は別の道です。むしろ経済の発展になると思うのですが」
「その通りだよ。これは互いの利益になるというのに佐原の者たちはそれを理解しておらぬ。無知とは哀れなものよ」
この話を聞いていた勇作は、資料をまとめて終えたがふと清磨を見た。
「それはわかりましたけれど。それがどうして老舗を調べることにつながるのですが」
「……反対派に説明をするのも面倒なのでな。手っ取り早く地元の老舗を買収しこちら側に付けることにした」
「そのための買収ですか、ではこれは該当しないな……」
ようやく納得できた勇作はそういうと手元の資料から一枚資料を抜き清磨に渡した。清磨はこの資料を読んだが、眉をひそめていた。
「ダメだな、これも」
「その味噌屋もですか?でも融資の金額は低く済みますよ」
勇作の提示した資料は、経営難の恐れらがある老舗の一覧表だった。しかし清磨は首を横に振った。
「確かにその方が助かるが、少額ではありがたみがないじゃないか。本当に困っている店が良いのだ……他の店はないのか」
「他ですか」
「お前、先ほど一枚資料を抜いたであろう。それを見せろ」
「あ?ああ。しかし、該当しませんよ」
勇作は顔の前にこの紙を出した。
「……該当しないとは、どういうことだ」
「この店は醤油屋ですが、工場などで借金をしていまして。買収するには経営が複雑すぎますので、今回の話に合いませんから」
「とにかく見せろ」
清磨が読み始めると、勇作はお茶を淹れ出した。
「その醤油屋は確かに老舗です。でも負債額は大きいですよね」
「確かに、結構あるな」
御茶を持ってきた勇作は、顎に置きじっと読んでいる清麿の手元の書類を指した。
「そしてここの数字を見てください。上正には工場がありまして、そこが赤字の原因のようです」
「本家の赤字は少ないのにな」
このつぶやきに勇作はうなづいた。
「書類上ではそうなっています。しかし工場で作っている佃煮は佐原では評判なのですよ」
「おかしいじゃないか」
「だからここは辞めた方がいいと思って抜きました。経営が複雑ですから」
「……」
清磨はじっと考えていた。勇作は続けた。
「調べればもう少しわかるかと思いますが、それよりも他の店が無難です。
やはりこっちの味噌屋に」
「いや、ここにしよう」
「え」
清磨は読むのを止めた。
「本家への投資は少額に済むし、大きな赤字の工場は無視すればよい」
「ですが」
「この店の傷は確かに大きい。しかしわずかな投資でそれが塞がるのだ。ここに融資をする」
そんな清磨はちらと柱時計を見た。
「さて。では早速その上正に行ってみるか」
「今からですか」
「ああ。『出船に船頭待たず』だ。好機が来たら他の事には構っておられぬ」
そういって上着を取った清磨に勇作はやれやれとした顔で受話器を持ち、上正に電話をした。そして清磨は勇作が運転する車で上正に向かっていた。
神崎商社は引退した神崎号蔵が養蚕事業で大きくした会社である。現在は一人息子の清磨が主な経営を継いでいた。母親を少年時代に亡くした彼は神崎の祖母に育てられた。母の愛が少なく幼い頃より有能な清磨は、父の影響もあり手段を選ばない冷酷な一面を持ち合わせていた。
傲慢、非道、残酷、自分の事しか考えていない氷の男という評判であったが、実力主義で結果がすべての彼はこの評価を好む傾向にあった。
……舟で運ぶか。まあ、それも今のうちだけだな。
経済発展の昨今。船はたしかに大量に安値で荷物を運ぶことができたが、これからは速さが求められる時代だと清磨は思っていた。
佐原へ進む道沿いの倉庫街をぼんやりと見ていた清磨は、荷物を速く運ぶことが可能になれば、在庫も不要になるため倉庫も不要になると予想していた。
……どうせ。俺が何もせずとも佐原は衰退するはずだ。
そんな事を思いながら足を組み直した彼はふと、見えてきた川を見つめた。
……小野川か。忌々しい水の流れだ。
晴天の元、光る川面をどこか憎々し気に見る彼に勇作はのんきそうに声を掛けた。
「若、着きました」
「わかっておる。おお、柳か」
白いの花が満開の川沿い駐車した彼らは車から降りた。清磨は風に花びらが雪のように舞う川沿いに並ぶ商家をまぶしそうに眺めていた。車を駐車した勇作は彼の隣に立った。
「若、ここ一帯の商家はみな江戸時代の建物になります。この上正は元は油屋で始まりましたが、後に醤油屋を始めまして、今は佃煮の製造もしております」
「良い匂いがするな」
二人は忙しく行き交う人々の中、上流を見ていた。
「はい。向こうの橋のたもとにあるのは荒物屋になりまして、あの店も江戸からの創業です」
「なるほど……しかし勇作、あの橋はなんだ」
「どこですか。あ!水がじゃあじゃあ出てますね」
川に架かる橋の下からなぜか水が落ち、川へ落水している様子に驚く二人はそばにいた通行人に仕組みを尋ねた。
「あ、あれかい?あれは小野川名物『じゃあじゃあ橋』っていうのさ」
男は川の上流を指して説明をした。
「この川はこうして流れているが、この左手の東岸の佐原村には水田がありましてね。そこでも水が欲しいので、この川の水を運ぶためにああやって川の上流の水を一部、樋でこちらに流しているのです」
上流に設置された樋は大きな木製の水路であった。ここを流れた樋の水はこの橋から大きく東へ進路を曲げ村へと流れていた。この角を曲がる時にあふれた水が小野川にじゃあじゃあとこぼれ落ちていた。
「そうか、曲がり切れない水なのか」
感心する清磨に男はうなづいた。
「ははは。そうなのです。このためあの橋も『樋橋』というのですよ」
そして男は続けた。
「それにですね。あの屋敷は有名は伊能忠敬様のお屋敷ですよ」
「へえ、あの測量で有名な江戸時代の人ですよね」
感心している勇作に対し、清磨はさっと背を向けた。
「……勇作、行くぞ。我々は観光に来たわけではない」
「は、はい」
いつの間にか不機嫌になった清磨に慌てた勇作は上正へ案内した。
◇◇◇
「突然ですみません。時間ができたものですから」
「いえいえ。光栄です」
融資をしてくれると思った上正の主人の潮田源次はそういうと清磨と勇作を奥座敷でもてなした。そしてさっそく話になった。
「では、赤字の理由は佃煮の加工場ということですか」
「ええ、お恥ずかしい話ですが」
清磨の鋭い視線の前に源次は汗を拭いた。それは上正の苦しい経営状況の説明であった。事前に融資の話を勇作に打診させていた清磨は黙って聞いていた。
源次の説明では佃煮にする小魚の不漁や人手不足が原因だと話していた。
……ほう?赤字はすべて人のせいか。大した経営者だ。
年上の源次を軽蔑の面持ちで見ていた清磨は、ふと出された資料に気が付いた。
「それでは、赤字はすべてこの加工場のせいだと」
「そうです」
「我が神崎は貴殿に融資を検討しておりますが、この加工場の今の様子では……」
……少し脅しておくか。
融資をするのは乗合自動車を進めるための味方作りが目的だった清磨は、源次の頭をさらに下げさせようとした。
「……考え直さないとなりませんね」
「神崎さん!お待ちください。それについてですが」
源次はあわてて彼に向かった。
「実は、加工場は醤油屋と経営を分けまして。今は子会社になっております」
「では。『上正』と『加工場』の財布は別になっていると」
「そ、そういうことです」
……赤字をすべて加工場に押し付けたのか。いずれは倒産させる腹積もりか。
確かにこの方法であれば老舗の醤油屋上正は神崎の融資を受ければ生き返る事ができる状態であった。清磨は改めて目の前の肥えた源次を見つめた。
……加工場の泥船に乗るわけがないか、この狸男が。
強かな源次の姑息なやり方に、同類の清磨は笑みを見せた。
「わかりました。それならば提示した通り、我が神崎でこの醤油屋の上正さんに融資をしましょう」
「本当ですか?ああ、ありがとうございます」
老舗の経営者は頭を下げる様子に清磨は侮蔑の目で見下ろした。こうして商談が済んだ清磨は帰ろうと店を出ようとした。
「ん。ここは煮物の匂いがしますね」
「ああ、それは加工場の匂いです。裏手に工場がありますので」
見送ろうとした源次の言葉に清磨は立ち止まった。
……泥舟に挨拶をしておくか。乗るつもりはない、と……
ここに何度も来るつもりがない清磨は立ち止まった。
「上正さん、加工場の責任者は在宅ですか」
「あ、ああ、今時間ならばいるかと」
「若。どうしましたか」
「……会っていく」
「え、でも。加工場は上正とは別扱いですぞ」
「そうですよ、若。会っても無駄と思いますが」
これを止めさせようとする二人に清磨は片眉を上げた。
「もちろんです。私もそれを伝えたいだけですから。勇作、参るぞ」
「上正さん。ではお取次ぎ願えますか」
わがままな清磨を知る勇作は諦めて潮田に向かった。長身の二人の雰囲気に源次は焦っていた。
「わかりました!神崎様。少々お待ちください。私は加工場に申してきますので」
そういって源次は慌てて加工場の方へ消えていった。待機の二人はふと川を見た。揺れる白い花の柳のしなかやな枝、光る川面、岸の菜の花に無邪気に遊ぶカルガモやじゃあじゃあ橋からの水音に似合わない緩やかな川面をのんびり見ている清磨に、勇作はつぶやいた。
「若。やはり会っても時間の無駄ですよ。取り決めならば後で書類を送った方が互いの証拠になります。今日はこのまま帰りましょう」
懐中時計で時刻を見ている勇作に、清磨は靡いていた柳の枝を手で払った。
「書類を交わすほどでもないだろう。それに俺が言いたいのは一切関与しないという事だ。これは責任者にはっきり言えば一度で済むことだ」
「確かにそうですけどね」
そんな清磨は屋敷を背にして川へと歩いた。午後の日差しの中、柳の白花で染まる川を小舟がすいすいとこちらに近づいていた。舟をこぐ娘は歌を歌っていた。清磨はその優しい歌が青空に溶けていくのを思わずじっと見ていた。
その娘は船着き場に舟を停めると柱に縄で結んでいた。その作業の手際が良い
様を清磨はなぜか見ていた。すると娘がこちらを見た。
柳の白い花の影から見えたその瞳はまっすぐで、黒髪が春風に揺れていた。彼女は一瞬、驚いた顔であったは桃色の唇が動いた。
「こんにちは」
娘のお辞儀に思わず清磨も目を細め小さくお辞儀をした。
「ああ」
「……失礼します」
そんな娘は忙しく上正の店の奥へ入って行った。それと入れ替わりに源次がやって来た。
「神崎様。支度が出来ました。ささ。どうぞ奥へ」
なぜかまだ彼女を目で追っていた清磨を今度は勇作が背を軽く押した。
「若、参りましょう」
青い空の白い雲が流れる水辺で汗を拭う娘になぜか心が止まった彼は、加工場の奥へと足を運んで行った。川沿いの店の脇道を進むと奥には大きな屋根の工場があった。源次はその中の事務所の引き戸を引いた。
◇◇◇
「神崎様。どうぞこちらに。あの、この者は番頭の斎藤と申します」
「初めまして」
初老の男性が頭を下げる中、清磨は事務所を見渡した。粗末であるが清潔な事務所の椅子に彼は座った。しかし源次は焦っていた。
「おい、斎藤。菊子はどこだ?なぜいないのだ」
「奥様の言いつけで買い物に」
「いいから早く呼んでまいれ!ああ、それにお茶はどうしたのだ」
大慌ての潮田はそう言って一人席を外した。残った清磨はまだ部屋を見ながら斎藤に向かった。
「尋ねるが、この加工場も江戸の創業ですか」
「いいえ。明治に入ってからです。今の社長の祖父が始めました」
「この佃煮は主にどこに販売しているのですか」
「東京ですね。他にも利根川の釣り客が土産に買っていきます」
「ほう」
その時、すっと戸が開いた。娘は驚き顔で目を瞬かせていた。この瞬間、清磨も息を呑んだ。
「斎藤さん、お客様ですか」
「ええ。お嬢にお客様です」
「私にですか」
……先ほどの舟の娘?この娘が責任者なのか。
清磨が見つめている中、勇作が先に声を掛けた。
「失礼ですが、あなたがここの責任者ですか」
「そうです」
……この娘がか?
驚きの目で清磨は娘を見た。彼女はまっすぐ自分を見ていた。そんな彼女に勇作は彼を紹介した。
「こちらは神崎商社の神崎清磨様です」
「神崎だ。で、君は?」
目を細め菊子を見つめる清磨に対し、菊子はどこか悲しげに口を開いた。
「私は潮田菊子と申します。ここの、責任者です」
「君が……」
……潮田というのはこの上正の縁故の者か。
まだ若い娘に清磨は眉間に皺を寄せた。荒れた手に粗末な絣の着物姿の娘は悲しくうつむいていた。
……こんな小娘に赤字を押し付けたのか。上正の主は。
今は不在の源次に彼は嫌悪感を抱きつつ、娘に語り出した。
「まあいい。私は醤油屋の上正を支援しているものだ。この工場が赤字と聞いて確認に参った」
「そうですか。どうぞおかけ下さい」
椅子を進める娘はそう悲しくつぶやいた。腰を掛けた彼はそれをため息で返した。
「君にはっきり言っておく。私はここの加工場に関しては一切、援助はせぬからな」
「……はい。承知しております」
「なんだと?」
娘の言葉に彼は驚きで顔を上げた。菊子は静かに伝えた。
「私は、あなた様の融資を期待しておりません」
「その意味はわかって言っているのであろうな」
「はい……」
叔父に倒産させろと言われている菊子は、悲しそうにうつむきながらそう返事をした。その口元は涙をこらえる様に一文字で結ばれていたが、彼女は必死に言葉を発した。
「あの……お話はそれだけですか」
「あ、ああ」
拍子抜けをした清磨に菊子はやっと顔を上げた。
「斎藤さん。叔父様を探してきてください」
「はい、お嬢」
斎藤が退室した時、菊子は卓上に何もない事に気が付いた。
「申し訳ありません。お茶も出さずに。今、淹れますね」
そして菊子は立ち上がるとお茶を淹れ始めた。その小柄な背中を彼は憎々し気に爪を噛みながら見ていた。
……俺の融資は望まないとは。何と生意気な娘だ。
明らかに金に困っている状況であるのに清磨に頼るつもりがない娘に、彼は苛立っていた。彼の気持ちを悟った勇作は囁いた。
「若。帰りましょう」
「……ああ」
「あの。御茶です」
飲まないつもり清磨であったが、お茶を出した娘の手が真っ赤であった。その手が荒れているのを彼は見た。
……こんなに苦労しておるのに。俺の金など欲しくないとは、な。まあ、せいぜい苦しむがいいさ。
小娘社長の答えを自分に対する挑戦と受け取った彼は、それを受ける気持ちになった。
「若。時間が」
「勇作、しばし待て」
「ですが」
「社長が自ら淹れてくれたお茶だ。礼儀として一口飲むだけだ」
そして飲んだ彼は驚いた。
……美味い?なんだこれは。
「娘」
「はい」
目を見開いた清磨は目の前に座っている菊子を驚き顔で見つめた。
「これはなんだ?」
「え」
「何を煎れたのだ」
「お茶ですけれど」
この時、戸が開いた。そして源次と娘らしき女が入って来た。騒がしい様子を無視し彼らはこれで上正を後にし、車に乗り込んだ。そこには柳の花びらが舞い込んでいた。
「若。これで計画通りですね」
「ああ。それにしても」
……あの娘め。だんだん腹が立ってきた。
花びらを手にした清磨はこれを見つめていた。融資をしないと言った時、当然のように受け止めた娘の態度に彼は苛立っていた。その顔はどこか悲しそうで彼の心を締め付けていた。
「くそ。面白くない」
「若、加工場の事はどうでもよいではないですか。これでもう関わりがないのですから」
「そうだな」
……そうだ、会うことなどない。あの娘には。
清磨は車の窓からそっと空を見上げていた。まぶしい太陽が照らす小野川は、春の匂いを漂わせ静かに流れていた。
二「冷たき風」完
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