三 神崎商社

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三 神崎商社

十年前。夏の利根川河口、顎川。 「うわ!船底から水が出たぞ」 「きゃーー」 「避難艇を出せ!」  大正時代。祝日の観光地の遊覧船の親子連れが多い乗客達は恐怖で固まった。突然の悪天候と船の故障で火災の船の避難艇には全員が乗れないという異常事態であった。このため船長は子連れの母親や子供を優先して小舟に乗せた。 「清麿。しっかり母さんに捕まっていなさい」 「はい。母上」  少年の神崎清麿は、母親と一緒に小舟に震えて乗っていた。他にも乗っているこの小舟で清麿は母にすがった。 「母上。僕は泳げません」 「大丈夫よ。さあ、手を繋いで」 「でも怖い……」  怖がる清麿は大海原でおびえていた。その時、隣にいた子が彼に優しく語りかけてきた。 「大丈夫。きっと助けが来るよ」 「う、うん」  しかし突然、高波にてボートはひっくり返ってしまった。 「清麿!?きゃああ」 「うわあ」  海に落ちた清麿はパニックになった。その時、誰かが彼の背中を引き、海面へと顔を出させ浮き輪を彼に掴ませた。 「落ち着いて!それに捕まって!」 「はあ、はあ」  それは先程ボートの隣にいた子だった。そして浮き輪に体を通してもらった清麿はこれで浮かぶことができた。ようやく落ち着いて見ると、みなバラバラに海面に浮いていた。しかし大人たちと清麿とその子は、波でどんどん大人と離れていた。 その子は浮き輪がなく立ち泳ぎ泳ぎをしていた。 「母上!母上」 「泣かないで?きっと大丈夫だよ……向こうの船に捕まって浮かんでいるから」 「う、うん」  その子の励ましで清麿はようやく落ち着いてきた。そんな子は浮き輪に捕まり、足をバタバタさせ一緒に泳ぎ出した。 「何をするの」 「港の方角に行こう。助けの船はそこから来るから」 「港なんか見えないよ」  高波で見えず見渡す限りの海で土地など見えない水の世界。しかしその子は声をしっかり出した。   「ほら。鳥を見て。向こうから飛んでくるよ」 「本当だ」  清麿を励ますようにその子は必死に泳いだ。波が荒く進んでいるように感じないが、子は必死に進めていた。そして二人は救助船に見つけてもらった。  船に乗せてもらえた二人は寒さで震えた。しかし毛布が足りないため、二人で包まった。 「あ」 「どうしたの」 「君。背中が、真っ赤だよ」  清麿を助けてくれた子は濡れた背中がみるみる朱に染まっていた。   「あ。本当だ。どこかにぶつけたのかな」 「痛いでしょう?それは」  思わず自分が痛くなったような清磨であるが、その子は気にしていない様子だった。 「夢中で気がつかなかった。それよりも君は大丈夫?」 「うん」  ……優しいな。  同年齢なのに自分を心配してくれる子に、清麿は心細さでしがみついた。 「大丈夫よ。ほら。君のお母さんもきっと待っているから」 「う、うん」 「寒いね、もっとこっちにおいでよ」 「うん」  清磨はその子に甘えるように毛布で温め合った。優しさに包まれながら、いつの間にか眠ってしまった。 そんな清磨が目覚めたのは病院のベッドだった。 「ここは?」 「清麿!よかった。無事で……」  ◇◇◇ 「若!こんなところで寝ては風邪をひきますよ」 「ん?そうか。夢か」  神崎商社の仮事務所の長椅子でいつの間にかうたた寝をしていた神崎清麿はそっと起きた。そんな彼に秘書の勇作がお茶を出した。   「はい。お茶です、若」 「勇作。会社では社長と呼べと申したであろう」 「はいはい。それですね、若、例の上正の件ですが」  何度注意してもまだ若と呼ぶ勇作の事を清麿は諦め頭をかいた。   「もういい!それでどうだった?」    苛立ちながらも彼は勇作の報告を聞いた。 「ええと。どこから話せば」 「赤字の件」 「あ。そうでした」  神崎商社の若き社長の清麿は投資を決めた上正の詳しい資料を手にした。銚子に近い八日市場出身の彼は、現在ここ佐原で事業をするために小野川の下流にある倉庫を借り、事務所にしていた。そんな彼に勇作は話し始めた。 「現在の経営状況ですが、健全とは言えません。社長の潮田源次は、夜な夜な贔屓の芸妓がいる店に出入りの様子で、金遣いが荒いので有名でした」 「それはいい。で?その遊ぶ金は会社の金ってことか」 「おそらく。他にもですね」  勇作の資料には、源次の愛人問題。妻の豪遊。さらに娘の贅沢の内容が記されていた。 「それは全て、会社の資金と思われます」 「愚かな。それで金策に走っているとは情けない」  清麿は立ち上がった。そして窓の外の景色を見た。その広い背に勇作は問いながら横に立った 「若。そろそろ教えてください。佐原に固執する理由を」 「乗合自動車のためが」 「本当にそれだけですか」 清磨は振り返ると話し出した。 「どういう意味だ」 「乗合自動車はわかっています。しかし若はずいぶんとこの佐原の町を気にされていますので」 清磨は静かに椅子に座った。 「それは……我が神崎で乗合自動車で東京とここを結ぶ事業を始めるためだ」 「それは存じています。それに地元や船会社が反対することもわかっています。私が知りたいのは若が、ここにこだわることです」 「というと?」 勇作はまっすぐ話した。 「反対が多いなら他の町の陸路でもよいはずです。しかし若は佐原に拘っているじゃないですか。私はその理由を聞いているのです」 真剣な勇作に彼は面倒そうに話した。 「お前には敵わないな、そうだよ。俺が子供の頃に被害にあった、例の遊覧船の事故のせいだ」 「若。私は詳しく聞いておりませんが、それは船に定員以上の人を乗せたせいで、沈没した事件ですよね」 「そうだ」  清磨はけだるそうに髪をかき上げた。 「当時のことはあまり覚えていない。しかし後で母上に聞いた話だと、あれは船会社が悪天候であるのに定員以上の乗客を乗せたせいだと聞いている」 「それは金に目がくらんで、そんなことをしたのでしょうか」 勇作の言葉に清磨はすっと椅子に座った。 「おそらくな。そしてそのせいで俺は溺れかけて死に目に遭い、母上は病で早死にをした。ゆえに俺はこれを許すつもりはないのだよ」  清麿は首をコキコキ回した。 「俺は復讐のためにまずここを乗っ取るつもりだ。そして最後はあんな町は潰してやる」 「若」 「……勇作。それよりも昨日見てきた加工場の資料をもっと集めてくれ。これだけでは不足だ」 「はい」  勇作が去った部屋。そこには夕日が輝いていた。清麿は見つめていた。 ……あの日の夕焼けのようだ。 少年時代の水難事故は、彼の両親は無事であり自分も怪我はなかった。しかし彼はしばらく怖い夢にうなされた。水は今でも嫌いであった。  ……しかし、俺を助けてくれた少年はどこにいるのだ?  老齢の父親は縁起が悪いのでこの件には関わるなと言っていたが、清麿はどうしてもあの時の少年にお礼を言いたかった。母親は亡くなってしまった清麿は、密かにそう思っていた。 ……そうだよな。彼は俺に浮き輪をくれたが、よく考えれば、多分、俺よりも年下だったから浮き輪をつけていたはずだ…… 皮肉な運命でこの土地に再びやってきた清磨は、復讐の気持ちが再燃していた。しかし恩人だけは助けたいと思っていた。あの事故の後の病院の看護婦は、あの子は清麿を守るために背中に傷を負ったと聞いていた。  ……おそらく、もう。ここには住んでいないのであろうな。  復讐と恩義を心に抱える清麿はただ、窓の外を見ていた。日はもうじき暮れようとしていた。  その数日後。清麿は書類を読んでいた。 「なんだこの数字は」 「上正の工場の状態ですが」 「それにしても赤字がひどすぎる」 清磨は経営を記した書類をさっと机に置いた。勇作はそれを補足した。 「ですが、若、この工場は上正と別です。無視をして良いかと」 「確かにそうだが」  前髪に触れた清磨はその指の間から、なぜかあの時の娘が見えたような気がした。 ……『あなたの融資は期待していません』か。よくも、この俺に。 あの時の工場長の娘のまっすぐな瞳に彼は苛立っていた。確かにどうでもよい話であり彼には関係ないことである。しかし、心に波が立っていた。 「若?」 「生意気にも俺に盾突くとは……さあ、どうするか」 清磨は再び上正の工場の書類を手に取り、そして万年筆をどれにしようか選んだ。 「若、あの。こちらの道路補修の件はどうされますか」 「それは後だ。まずはこっちだ。ええと?まずは、そうだな『債権の回収と売り上げ目標』だな」 「若、それは」 「あの生意気な娘に一泡ふかせてやるのだ、ええと」 夢中な清磨に勇作は呆れて違う仕事を始めた。 三話「神崎商社」完
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