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四 静かに流れて
叔父に社長になれと宣告された翌日。菊子はいつものように水産加工場に勤務していた。ここは霞ヶ浦で上がったシジミ貝を水路にて舟で運び加工している工場。物心ついた時から手伝いをしていた菊子は叔父に言われた話を古株である専務の斎藤に打ち明けた。
「へえ。お嬢が社長になる話は、わしも旦那さんから聞いております。ですが赤字をこっちが全部被るなんて、お嬢。大丈夫ですか?」
「大丈夫も何も。私は叔父様の指示通りにするだけよ」
「お嬢……」
菊子の両親に仕えていた古い社員の斎藤は、菊子を心配そうにみつめた。白髪頭の老齢の彼は冷遇されていた菊子を孫のように優しく接してくれていた。こうして菊子は従業員を前にした朝礼にて斎藤と前に出ていた。
「みなさん。今日からこの菊子さんがここの責任者になりました。菊子さんは今までも一緒に仕事をしていたが、今後は失礼のないように」
「みなさん、よろしくお願いします」
しかし返事はなく、工場の娘達は冷たい目で挨拶をした菊子を見ていた。そして鐘が鳴ったため一同は仕事に向かった。
「お嬢。こんな態度ですみません」
「いいのです。急に私が責任者になってみんなも戸惑っているはずですし」
元から上正の娘として従業員には距離を置かれていた菊子は、このことでさらに孤立を感じていた。
「……わしにできることがあれば、何でも言ってくだされ」
「ありがとう。でも、今は工場を今まで通りに続けましょう」
叔父の源次の計画では急に倒産するのはまずいということだった。このため菊子にはまだ加工場の再建の時間があった。悩むよりも動いていた方が楽な菊子はこうして過ごしていたある日、叔母に命じられた買い物を済ませ、やっと加工場に戻って来た。すると従業員が血相を変えてやってきた。
「お嬢。大変です」
「どうしたの」
女従業員は焦った様子で訴えた。
「あの。お客様が視察に来て、事務室でお待ちです」
「わかったわ」
部屋に入るとそこは空気が固まっていた。
目の前の紳士に菊子は濡れていた手を前掛けでそっと拭いた。
……挨拶しなきゃ。
目が合った菊子は彼の前に立った。
「は、はい。私は、社長の潮田菊子です」
「ふ」
黒いスーツ。冷酷そうなその態度の男は作業の前掛けをした汚れた菊子を見て足を組み直した。立ったままの菊子はドキドキしていた。
挨拶を交わしたが、相手はやはり冷たかった。期待をしていなかった菊子はそう告げると彼はどこか怒っていたが、最後はお茶を飲みほしていった。
……そうか。あの方が神崎様で、牡丹ちゃんの結婚相手なのね。
それよりも問題が山積の菊子は、静かに悲しく加工場に戻った。
◇◇◇
その後、神崎を見送った叔母は鬼の顔で怒りに震え、牡丹は無言で腕を組んでいた。源次はやれやれと頭をかく中、叔母は菊子に尋ねた。
「菊子!どうして神崎様が来たことを私に知らせないのよ」
「突然でしたので」
ここで牡丹がさっと動いた。
「おだまり!」
玄関で牡丹は菊子の頬を打った。
「言い訳する気?!この私に向かって」
「……すみません」
「牡丹はそのくらいで部屋に戻りなさい。それよりも菊子」
娘の暴力を何とも思わない源次は、必死な顔で菊子に尋ねた。
「お前、神崎様に何をいわれたのだ」
「融資をしないと言われたので、分かりましたと言いました」
「それで?向こうはどうであったのだ」
興奮している叔父に菊子は淡々と告げた。
「納得されていました」
「そうか。そうか、まあ、よかった」
叔父は自分を納得させるように言葉をこぼしていた。そして菊子は悲しく台所に向かった。
疲れた体を休めることもなく、家事は延々と彼女の前に溜まっていた。
そんな菊子は食器を洗おうと動き出した。
……あ、このお茶は、あの方が飲んだ湯呑だわ。
お茶を褒めてくれた彼に、菊子は少し微笑んだ。
この茶葉はとっておきであり、この水は美味しい湧水だった。
……そしてこの急須は亡くなったおばあさんがとても貴重なものだって言っていたっけ。
上正の融資をしてくれる人物と聞いていたので菊子はとっさに最高の御茶を淹れたつもりだった。この味を見抜いたのは彼が初めてだった。
……きっといつも美味しいお茶を飲んでいるのでしょうね。それにしてもすごいな。
どこか嬉しく思っていた菊子であったが、ここに叔母の怒号がしてきた。自由に思いに更けることもできない菊子は、打たれた頬を腫らせたまま夕暮れの中で孤独色に染まっていた。
◇◇◇
今夜も黙って夕食を作った菊子は三人に食事を出した。牡丹は嬉しそうに話し出した。
「お父様。本当に神崎様は素敵な方ね、他の殿方と違うわ」
「そうだろう。これからもっとお前は彼に会うだろうから。せいぜい、粗相のないようにな」
これにタミが笑った。
「まあ?うちの牡丹に限ってそんなことありませんよ?ほほほ」
三人の会話中、菊子は疲れて台所でぼうっとしていた。窓の外、星が見えていた。
……ああ。明日から。工場をどうしよう。
あの神崎清麿という男は厳しい目をしていた。融資をしないという彼の宣言を菊子は胸に受け止めていた。
……そうよ。人を頼っていられないわ。私がしっかりしないと。倒産というけれど従業員がいるんですもの。みんな家族を養っていのだから、できるだけ頑張らないと……
悩みつつ菊子は眠った。
◇◇◇
「みなさん、おはようございます」
「ああ」
「どうも」
朝の上正の加工場で元気よく挨拶をした菊子であったが、今朝も女工たちにつめたく返されてしまった。農家の娘たちは菊子を上正の令嬢とみており、この工場で一緒に仕事をしていても仲良くしようとしてくれずにいた。
「おはようございます。今朝は良いお天気ですね」
「……」
「醤油は足しておきましたので、よろしくお願いします」
菊子は自ら重い醤油の補充や、下処理をした魚の生臭い後を片付けた。これはいつもの事であったが、社長になっても彼女は同じ仕事をしていた。
「おはようございます。あ、そこの掃除は済んでいますよ」
「そうですか。あの、お嬢」
目付きの鋭い工場の娘は菊子を呼び止めた。
「私はここに長く勤めているマメといいます。あなた様よりもずっと前からいるんですが、私の事なんか知らないでしょう」
「すみません」
気が付くとマメの背後には数名の女工がいた。
「ま、お嬢様にはわからないだろうけど。ここにはここの『やり方』ってもんがあるんだ。それを勝手に変えられちゃ困るよ」
「意味が分からないのですが」
「あのね!」
マメは迷惑そうに言い出した。
「あんたがやった仕事は、他の奴がやる仕事なのさ」
「そうだよ!勝手にやられたら迷惑なのよ」
「おかげでこっちの立場がなくなっているのに」
三人の言っている意味が分からない菊子であったが、この時さっと目の前に娘が現れた。
「マメさん。ごめんなさい。私が悪いのです」
「あなたは?」
菊子をかばったのは、粗末な着物の娘だった。菊子が驚く中、マメは娘を睨んだ。
「とにかく!掃除をするのはキイだよ!お嬢は余計な事をしないでくださいね」
嵐のようなマメ軍団の様子にあっけにとられた菊子は、目の前のキイを改めて見た。
「あの、あなたは」
「お嬢、あの、ちょっとこれを持ってくれますか」
「はい」
二人は人知れず倉庫の奥に重い樽を運んだ。キイは説明をした。
「ごめんなさい。マメさんはここを仕切っている女親分なんです。私はその、いつもぐずぐずしているので」
「でも、どうしてキイさんが」
キイは薄暗い倉庫でため息をついた。
「昔からこうなんです。マメさんのお父さんは昔、私の母に縁談を申し込んだらしいのですが、母は幼馴染だった父と結婚したので。そのことでいつも」
「そう」
自分のこと以外で責められる事は菊子と同じであった。そんなキイは菊子に謝った。
「本当にごめんなさい」
「キイさん?」
「きつい仕事は私がやらないと睨まれます。お嬢はどうか、手を貸さないだください」
キイはそう言うと走り去っていった。その悲しい背中を菊子は黙ってみていた。
こうして過ごす中、菊子は従業員たちのためになんとか利益を出そうと必死に考えていた。
この日は今まで現場で掃除やシジミ貝の加工しかしていなかった菊子は、やっと時間を作り斎藤に相談をした。
「え?帳簿ですか」
「ええ。見てもわからないかもしれないですが」
「いいえ。どうぞ」
専務の老人の斉藤は菊子に全てを見せた。菊子は斉藤から必死に説明を受けた。
「あの。この数字は何ですか?未収ってありますが」
「これは。つまり、もらっていない代金ですよ」
「こんなにたくさんあるのね」
上正の加工場ではシジミ貝を加工した珍味や、寿司屋用の子魚をさばき、主に寿司屋に配達をしていた。この寿司屋の未払額が大きくなっていた理由を菊子は斉藤に尋ねた。
「事情は色々なんですよ。でもまあ。払ってもらえないわけで」
頭をかきながらそう話す斎藤も困っていた。だが、菊子は前しか見ていなかった。
「でも斎藤さん。このお金は本当はこちらがもらえるお金なんですね」
「そうですね。金利をもらいたいくらいですよ」
「わかりました……まずはこの『魚辰』さんね」
菊子は立ち上がった。斎藤は目を見張った。
「お嬢。どちらに行くのですか」
「ここに書いてある未払いがある魚屋さんです」
「え?お嬢が行くのですか」
「ええ」
菊子は前掛けを外し、キリとした顔で斎藤を見た。
「……もらえるかわからないけれど。私、とにかくお願いしてみます」
そういうと菊子は着物の上に襟巻を巻いた。三月の千葉、この日の風は寒い匂いがしていた。
◇◇◇
「すみません、すみません」
「なんだい、うるさいね」
面倒くさそうに出てきた魚屋の奥方は疲れた顔で出てきた。朝の早い魚屋は昼にはもう片付けをしていた。店は古く、どこか汚れていた。菊子はさっと頭を下げて挨拶をした。
「私は上正の者です。あの、こちらにはうちの未払い金がありますね」
「おっと?帰っておくれ。話すことなんかないよ」
誤魔化そうとする奥方を、菊子は追いかけた。
「お願いです。少しでもいいので払ってください」
「うるさいね。そんなの知らないよ」
「奥さん。ここに必ず支払うと念書が」
「しつこいね!」
「きゃ」
突き飛ばされた菊子は道路に倒れた。通行人がこれを見ていた。
「あ、あんたが悪いんだよ」
「奥さん。お願いです。払ってください」
この様子に通行人が集まってきた。奥方は怒りでワナワナと震え出した。
「ちょっと。あんた!営業妨害だよ。警察を呼ぶよ」
「どうぞ」
菊子は泥の汚れを払い立ち上がりながら奥方を見つめた。
「お金を払わないのは泥棒ですから。どうぞ、警察を呼んでください」
「お前……」
「おい、何の騒ぎだ」
この騒ぎに魚屋の亭主が出てきた。彼は驚きの顔で二人の顔を見渡した。
「どうした娘さん。うちの家内が何かしたんですか」
「お前さんは?これは、その」
急に大人しくなった奥方であったが菊子が亭主にまっすぐ向いた。
「旦那様ですね。私は上正の者です。本日は今までの代金を少しでも頂戴したく参りました」
「代金って。ああ、ツケのことか?それなら先週、こいつはそちらさんに払いに行ったはずだよ」
「受け取ってないですよ」
「え」
「……あ、ああこれは」
狼狽出した奥方に夫は眉間にシワを寄せた。
「どうした?お前、上正さんに返したって言っていただろう」
「……」
「まさか」
旦那はうつむく妻に詰め寄った。
「お前。本当に支払ったのか。正直に言え」
「ごめんなさい……つい」
口ごもる奥方の肩を夫は掴んだ。
「お前!何に使ったんだ。早く言え」
「……お米を買って」
「くそ」
俯く妻を離した夫はため息をついた。
「もういい。あっちに行け」
「はい……」
そして店奥で菊子は旦那だけで話し合いになった。
「済まねえ。金のことはあいつに任せていて」
「こちらは、代金を払ってくださればそれで」
この時、奥から赤ん坊の声がした。菊子は思わずこの魚屋の店内を見た。
……暮らしは大変そう。奥さんも痩せていたし。
「本当に悪かった。必ず返すが、もう少し」
魚屋の旦那は必死に頭を下げた。その手は荒れてボロボロだった。自分と同じ手の旦那に菊子は思いを告げた。
「あの。ご主人。差し出がましいかもしれないですが……」
菊子は旦那と今後について話し合った。そして翌朝、菊子はこの魚屋にいた。
◇◇◇
「いらっしゃいませ!新鮮なお魚ですよ」
「あら、見ない顔だね」
「はい。手伝いに来ています」
売り上げが増えるように菊子は魚屋の手伝いをしていた。若い菊子の呼び声と美味しい魚の紹介に釣られて人々が買い物をしていった。やがて客が落ち着くと菊子は掃除を始めた。
「お客さんはお願いしますね。私は邪魔にならないようにしますので」
「済まねえな」
不潔のような気がした魚屋を菊子は自ら掃除を買って出た。乳飲児がいる奥方はすまなそうに見ていたが、菊子も時折一緒に赤ん坊をあやしていた。
「まあ、可愛い。奥さんに鼻がそっくりですね」
「……すまないね」
「え」
「私はあんたにひどいことを言ったのに、本当にごめんよ」
詫びる奥方に菊子は笑顔で返した。
「良いのですよ。あ!それよりも奥さん。奥さんは魚の煮物料理って作れますよね」
「もちろん。これでも魚屋だしね」
菊子は掃除をしながら奥方に相談した。それは上正の加工場では廃棄になる魚のことだった。
「でも。煮魚にすれば美味しいです。もったいないし。これを奥さんに煮物にして販売して欲しいです」
「わかった!私、なんでもやるよ」
赤ん坊を背負った奥方の笑みを交わした菊子は、こうして作戦を実行させていった。
そして翌日、菊子が見本に持ってきた魚を二人で一緒に捌き、料理にした。これを早速、魚屋の店先に並べてみた。
「いらっしゃいませ!どうぞ」
「いい匂いだね。それはなんだい?」
店先にいたお客の質問に菊子は答えた。
「これは白身魚の煮魚です。ここの奥さんの手作りです」
「買おうかな。私、今、手を怪我して料理ができなくてね」
「ありがとうございます!」
こうして煮魚はあっという間に完売になった。魚屋の夫婦は喜んでいた。
「すげえ?こんなにお前の煮魚が売れるとは?」
「私だって嬉しいよ!」
煮魚などは家庭料理であるので店では売れないと思っていた夫婦は、高齢者や働く人に売れたことに驚いていた。
「しかも。早くに完売だよ。これなら明日の煮魚もつくれるよ」
時計はまだ昼前。驚きの夫婦を前に、代わりに赤ん坊をあやしていた菊子は微笑んだ。
「ふふふ。坊やも歯が生えたら、大好きな母さんの煮魚を食べようね?」
「きゃ!きゃ!」
笑顔の赤ん坊と菊子の笑顔に、魚屋の夫婦はそっと紙幣を出した。
「これ。少しだけど、返すよ」
「本当にごめんよ」
真剣な夫婦はそう言って頭を下げた。しかし、菊子の心は複雑だった。
……食べるお米もギリギリなのに。受け取れないわ。
菊子は赤ん坊を奥方に返しながら答えた。
「旦那さん。お金はまだいいです」
「え」
菊子は笑顔で返した。
「お金は今月末でいいです。それよりも明日も忙しいですよ」
「菊子さん。あんたって人は」
「……菊子さん。本当にすまねえ。俺たち絶対繁盛して返すから」
菊子の温情に夫婦は優しい涙を流した。
これにほっとした菊子は空を見上げた。懐はさびしかったが、菊子の心はいっぱいだった。
◇◇◇
「うーん」
「若、若」
「なんだ、勇作」
「……その見出しを読んでいただけますか」
「これか?ええと、あ」
「逆さですよね」
後日の神崎商社仮事務所の社長室にて新聞を広げていた清麿は、勇作に指摘され驚いていた。
「いつの間に?」
「最初から逆さでしたが……若。そんなにあの娘さんがよかったですか」
「と、突然何を言い出すのだ?」
赤面の清麿に勇作は表情を掛けずに首をかしげた。
「私が言っているのはあの上正の工場の娘さんのお茶のことですよ。そんなに美味しかったのかなって」
「驚かせるな!全く」
……ああ、驚いた。何を言い出すかと思った。
確かにあの日から清麿は菊子のことを考えていた。仕事人間の彼は結婚話も仕事を理由に断っていた硬派であるが、また考え込んだ。
……しかし、小娘のくせに生意気で。
「ほら、またそうやって」
「うるさい!それで、上正の数字はどうだった」
「あ。そうでした」
勇作は調べた上正の懐具合を説明した。
「ええと。今から十年ほど前に、急に羽振りが良くなったようです。その時買った銀行株が上がったので、それで気が緩んだのか加工場経営が疎かになったようで」
「十年前か。何かあったのだろうな」
「わかりません。あ、それに、あの菊子さんのことがわかってきました……ふう、しばしお待ちを」
「勇作?」
ここで勇作はなぜかお茶を飲んだ。清麿はイライラした。
「早く報告せよ」
「やっぱり変ですね」
「なんだ?いきなり」
「最近の若は変です」
勇作は真顔で清麿に向かった。
「そんなに気になるのですか」
「は?」
「一目惚れですか」
「え」
清麿は顔が真っ赤だった。
四「静に流れて」完
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