六 馳せる思い

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六 馳せる思い

「若。少しは落ち着いてください」 「うるさい!黙って運転せよ」 「はあ」  秘書の勇作は清磨の指示で上正の加工場に向かっていた。ここで勇作は清麿に尋ねた。 「若。あのですね。上正の買収計画なのですが」 「ああ」 運転しながら勇作は話した。 「恐れ入りますが、やはり上正の本家に融資だけで十分なのではないですか」 「父上に何か言われたのか」 「……心配をされているだけと思います」 「ふん」 幼き頃から一緒にいる勇作は、気心が利いている側係りである。しかし、孤児だった勇作は清磨の父に恩義を感じている男だった。 「号蔵様としては、乗合自動車のための駐車場の土地の買収に成功すれば、住民の反対は無視せよというお考えのようです」 「それはもちろんだ。俺としては上正はあくまでも布石だ。上正だけで全てがうまくいくとは思っておらぬ」 「わかりました」  二人を沈黙が包んだが、やがて小野川のほとりの道にすすんだ。そして菊子の加工場に到着した。水の流れ清き小野川のその橋のたもとに勇作の運転する車が到着した。 「若はここでお待ちください。私はまず話を」 「うるさい。俺も行く」  二人は夕刻の加工場に入っていった。川沿いの店構えは狭いが奥は長い。その奥の作業場の外に斎藤が立っていた。 「これは神崎社長。何か御用ですか?」 「もう(しま)いか。してあの娘は何処だ?」 「お嬢はちょっと配達に」 「配達?自分でか」 「ええ、あ?見えて来ました。あそこです」 「あの舟か」  川の上流。そこにはサッパ船と言われる小舟に乗った娘が見えた。利根川方面からこの小野川へ涼やかに漕いできた彼女の舟には(むしろ)を積んでいた。  「……きんす、どんす、あやめの茶屋で……」  小舟で進む船頭の菊子は(かい)を操りながら童歌(わらべうた)を歌っていた。絣の着物姿で竿で川床を突きながら舟を進めていた。 「姉さん達が、お化粧なさる……きんす どんす、あやめの茶屋で……」  辛い仕事ばかりの毎日であったが、この小舟にいる時の菊子は、幸せだった。この時だけは誰にも邪魔されず空と川と光の中をただ優しく進むことができた。  しかしその時間も終点となり、彼女は実家そばの船着場に到着した。その時、岸にて待ち受けていたコウモリコートで仁王立ちの清麿に、菊子は気がついた。 「まあ。神崎様」 「……お前。これを運んできたのか?」  いっぱいの筵の舟からぴょんと降りた菊子は、驚き顔で彼を見た。 「確かにたくさんですけれど、筵は軽いですよ」 「それにしても」  ……朗らかに話すが。これは娘が一人でする仕事ではないだろう?  時はもうすぐ夕暮れ。神崎は眉を顰めたが、菊子は淡々と舟を柱につないでいた。ここにいつの間にか斎藤が工場から出迎えていた。 「斉藤さん。これで全部揃いましたね」 「お嬢、ご苦労様です。あとは私がやっておきますので。あ?神崎様は、奥へどうぞ」 「若、ささ、どうぞ入りましょう」 「うるさい!わかっておる、娘、案内せよ」 「はい」  先に事務所に入った菊子はここで髪のほっかむりを外し、清麿と勇作にお茶を淹れてきた。 ……こうしてそばで見ると。美麗な娘だ。  佐原の娘達は流行なのか皆、同じ髪型をしていた。頭の上で髪を一つに結び、その髪の根本を丈長という厚手の短冊形の細長い紙でリボン状に巻く。そして頭の上で一つに結んだ太い髪を二つに割り、頭の上でお団子にする髪型である。しかし菊子だけはそれをせず結んだ黒髪を横に流していた。清磨は思わず彼女の背中に質問をした。 「おい。お前、なぜお前は他の娘と同じ髪形をせぬのだ」 「若!それは失礼では」 ……そんなに気になるのかしら。 融資をしないとい言ったり、すると申し出たりする清磨の事が不思議な菊子は、彼を向いた。 「勇作は静まれ」 「若の方がうるさいですよ」 「あの。私の髪型のことですけれど」 お茶を淹れながら話す菊子の声に二人は静まった。もめていた二人は菊子を見つめた。 「神崎様のお話のとおり、確かに同じ年のみんなは髪を結っていますが、私は首筋に傷痕があって、それが見えてしまうのでその髪型ができないのです」 「傷痕、か」  驚きを必死に隠す清磨に菊子はしずしずとお茶を運んできた。 「ええ。見た方が不快に思われるので、ずっとこうしております。お茶をここに置きます」 「そ、そうか」 「失礼しました」 清磨と勇作にそう言って菊子は対面に座った。彼女の粗末な着物、荒れた手、働いているせいか、姿勢の良いその姿を清磨は見ないように見ていた。 「申し訳ありません。お茶菓子を切らしてしまって」 「か、構わぬ」  菊子をじっと見てしまった清麿は恥ずかしさで湯呑みを持った。その前に勇作が飲んでいた。 「若、このお茶が例のお茶ですか?別に普通の味ですよ」 「勇作。後で覚えておけよ」 「あの。神崎様、この度はどう言ったご用件ですか?」  気がつけば困惑顔の菊子がまっすぐ清麿を見ていた。お茶を飲んだ彼はそっと湯呑をテーブルに置いた。 「あ、あれだ。お前、従業員に変な規則を作ったそうだな」 「変な規則?ああ。確かにそうかもしれませんが、もしかして何かご迷惑を掛けましたか?」 「いや。それは」  違うと言えなかった清麿の代わりに勇作が話した。 「ええと、菊子さん。若が知りたいのは、新しい規則です」 「黙れ勇作。あのな。お前……」 「はい」  心配そうに自分を見つめる菊子に清磨は、心がかゆくなってきた。それを抑えるように必死に言葉にした。 「俺は、その、お前のことで迷惑にはなっておらぬ」 「よかった」  ほっとした顔の菊子の顔を清麿は見ないように見ていた。 「だから、その。つまりはその。俺はここに上正に融資しているのだ。だからここで何をしているか知っておく必要がある」 「そうでしたか。それは報告せずに申し訳ありませんでした。あの、規則はこちらになります」  菊子が広げた半紙には美文字の箇条書きがあった。清磨と勇作はそれを読んだ。 「ええと、『一つ、親睦を深めるべからず。一つ、休暇の断りを取る(なか)れ。一つ、苦手な仕事をするべからず』なんだこれは?」  驚き顔の清麿に菊子は説明をした。 「はい。それについて大変お恥ずかしいのですが、まず『親睦を深めるべからず』ですが。ここでは従業員同士の喧嘩が多く作業に支障が出ていたのです。だから、私は仲良くするのを禁止にしたのです」 「だから。それではあべこべであろう」 「いいえ?だって、口を聞かず目を合わせなければ関わりがないので争いにならないですもの」  ここで勇作が尋ねた。 「では。具体的にどうされているのですか」 「ご承知の通り、ここではシジミの加工をしています。今までは殻から身を取る者と、味をつける者をという風に係を分けていたのですが、それでは相手に合わせる必要があります」 「それが普通だと思うが、それで?」  清麿は足を崩して尋ねた。 「はい。今はそれを止めて、殻から身を出し味を付けて完成するまでを一人でやるようにしました」 清麿は顎に手を置き、思案した。 「なるほど……それなら協力が要らぬな?して、休暇についてはどういうことだ?意味がわからぬぞ」 「はい」  菊子の話を清麿はお茶を飲みながら聞いた。それは自由に出勤するというやり方だった。 「従業員の中には農家の者が多いし、それに家族の用事で急に休む事がありました。これが続くと作業に支障が出てしまうので、仲間に迷惑をかけると気にして辞めてしまう者が多かったんです」 「確かにな。だが新しいやり方だと一人で最後まで作業ができるなら、仲間が休んでも関係ない、というわけか」 「そうなんです」  ここで勇作が顔を上げた。 「お二人とも。今の話だと従業員が勝手に来て、勝手に帰ることを認めるわけですよね。しかし、それでは誰も仕事に来ないのではないですか」 「おい。娘。こう申しておるぞ」 「みなさんそう心配されますが、うちは勤務日数でお手当を出していているのです」 「そうか!勇作。皆、金が欲しいはずだ。だからそんなに長く休むはずがない。なあ?娘」  目がキラキラの清麿に菊子は微笑んだ。 「そうです。それに大雨など天気が悪い日は自らお休みしてくれるので、連絡しなくて済むので助かります。でもその分、翌日は張り切って作業をしてくれます」  菊子の話になぜか清麿はうれしく聞いていた。 「では最後の『苦手な仕事』というのは?」 「それは。うちにはシジミ貝以外にも小魚の加工もありまして」  苦手な作業では、商品が不出来であり効率が悪いと菊子は話した。 「ですので思い切ってやっていただくのは得意な仕事だけにしました。これでかなり商品がたくさん作れるようになりました」 ……この娘がそんな工夫をしたのか。これは。  ひそかに感心している清磨を知らず菊子は嬉しそうに話しだした。 「それにですね。これは私も思っていなかったのですが、この条件ならばまた働きたいと戻ってくれた従業員がたくさんいるんです。私、嬉しくて」  生き生きしている菊子を前に清麿はそっとお茶を飲んでいた。 「左様か」 「はい!お手当もたくさん出せそうだし。何よりみんな楽しく仕事ができています」 「なるほどな」 「あの、それよりも神崎様、融資の件ですが」 菊子は思い切って彼に尋ねた。 「あ、ああ」 「融資はないと仰っていましたが、これはどういう事ですか」 「ん?若。誰か来たようです」  ドスドスと歩く音が近づき、声が聞こえてきた。 「菊子!飯はどうした!いつまで仕事をしているんだよ!この出来損ないが」  この怒声で菊子の顔色が変わった。清麿はそれに気がついた。 「あの、神崎様。お話中、申し訳ありません。この話は後程に」 「そうですね。若、話はこれで」 帰りましょうという体裁の勇作に清磨は動かずに答えた。 「いや、茶をもう一杯くれ」 「若!」 「神崎様。あの本当にあの」  すると、事務室の戸がぱっと開いた。そこには鬼の顔の上正の奥方がいた。彼女は神崎に驚きの顔を見せた。 「菊子。この方は?」 「叔母さま。この方は」  説明をしようとした菊子に対し、叔母は目を細めた。   「いや?結構ですよ……へえ」  神崎の顔を知らぬ奥方は菊子の話を切った。 「お前さん。こんな赤字の工場に来るんだから。どうせロクな輩じゃないだろう。ああ?借金なら、そこにいる娘が払いますよ。なんたって社長ですから」 「叔母さま。あの、この方は」 「良いのだ」  あえて話をさせた清麿に奥方は笑みを浮かべた。 「へえ。ずいぶん仲が良いことで?菊子。お前、どうやってたらしこんだのだい?」 「叔母さま。違います!そんな方じゃありません」 「そうやって大人しい顔をして。大したアバズレだよ」 「おい!この方は」 「よせ」  無礼極まりない奥方の態度に勇作が立腹した。知らぬとはいえあまりの暴言に勇作は思わず腰の守り刀に手をかけた。しかし清麿はこれを机の下の手で制した。 「しかし!」 「勇作。良いのだ」 「ですが」  渋る勇作を抑えた清麿はゆったりと立ち上がった。 「失礼だが、あなたは上正の奥方ですか」 「そうよ。私の顔くらい覚えておきなさい」 対面した奥方のふくよかな顔に清磨はふっと笑った。 「ああ、今覚えました。では娘」 「はい」 「茶を馳走になった。まあ、せいぜい励め」 帰ろうとする清磨に菊子は声を掛けた。 「お待ちください神崎様!融資の件ですが。あの売り上げ目標はあまにりも」 「無理だというのか?だがお前は俺の融資などいらぬと申したのだ。その意気込みを見せてくれ」 「ですが」 「若、帰りましょう」 「そういうことだ」 「……わかりました。お車までお送りします」 そういって彼の後に付いていく菊子に、叔母は目を丸くした。 「菊子。あの神崎様って」 「叔母様、あのお方は神崎商社の神崎様です」 「退きな!」  顔色を変えた叔母は菊子を突き飛ばし彼を追った。神崎は足早に車まで向かっていた。 「お、お待ちになってください!」  この屋敷を出る彼に奥方が走ってきた。 「神崎様。知らずとはいえ申し訳ありませんでした」 「……」 「ああお許し下さい、どうかこの通り」  必死に謝る彼女を無視して神崎は車に乗った。そして無言のまま車を発車させた。 頭を深く下げている奥方を一度も見ることなく、神崎は上正を後にした。 「若。会社に戻りますね」 「ああ。しかし勇作、おかしいと思わぬか。あの菊子と申す娘は本当に上正の娘なのか」 「資料にはそうあります」 そう返事をした勇作に清磨は眉間に皺を寄せた。 「……それにあの様子。あの娘は仕事の後、家の仕事もさせられているのではないか」 「嫁入り前の娘さんはどこもあんな感じですよ」 「そういうものなのか」 ……亡き長男の娘が社長に就任という情報だが、あの様子では召使ではないか。  窓から見える小野川の流れを彼は眺めていた。その心は複雑だった。 当初は生意気な工場の娘を困らせてやろうという悪戯心であったが、今の彼はそれを後悔していた。 ……あの目標は達成できる数字ではない。これは、やりすぎたか。 今日会った娘は、利益よりも女工の事を案じ、工場を良くしようという思いしか見えなかった。しかもなぜか奥方に叱られている様子に清磨は自分を呪っていた。 「くそう」 「若。それよりも明日の朝は打ち合わせで、夜は会議です」 「ああ」 多忙な清磨は黄昏の小野川のほとりを進んでいた。窓から見上げた夕空には一番星が輝いていた。なぜかこれがまぶしくて見ることができない彼は、そっと目を伏せていた。 六「馳せる思い」完
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