七 宵闇にうたえば

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七 宵闇にうたえば

翌朝、菊子は工場の事務でさっそく斎藤や女工の代表と話し合いをしていた。 「斎藤さん。今週の未払い金の回収を発表して下さい」 「はい。お嬢の取り立てのおかげで、およそ七割の取引先が返済に応じています」 「七割ですか。でも斎藤さん、数字ではどうなのですか」 「はい」 斎藤の話では、少額の店の方が回収に応じていると話した。 「要するに滞納金額が多い店は、なかなか返せないってことね」 「そうなりますね。それとですね」 斎藤の話では、開き直って金を返さないという店の事だった。 「これはもうどうしようもないですわ」 「お嬢、どうしましょうか」 女工の質問に菊子は、悩みながら話した。 「……それでも、催促状だけ送り続けましょう。他の店に申し訳ないもの」 「わかりました。催促する、と」 「待って」 ここで菊子は斎藤に告げた。 「強く言ってもきっとだめよ。ここは優しい文にしなくちゃ」 「ではどうするのですか」 「貸して頂戴」 菊子はそっと書いた。 「ええと、『信じています』って、これですか」 「はい。それでいいです。そう書いて送ってください」  返ってくる見込みが低い相手の手紙をこう記した菊子は、次の案件に入った。 「ええと、次は新商品の事ね」 「はい、それは私から説明します」 しっかり者の女工は、説明を始めた。彼女は菊子に頼まれて上正加工場の新商品開発を担当していた。そんな彼女は皿にのせた鮒料理を持ってきた。 「これは鮒の煮付けです」 「三種類もあるのね」 「はい、味付けで悩んでいまして」  甘口の甘露煮と、しょうが味と味噌煮があった。これを斎藤と菊子で試食したが、どれもおいしいものだった。 「斎藤さんはどれですか」 「わしはこの味噌味ですかね」 「困ったわ。どれも美味しいなんて」  すると女工は言い出した。 「甘露煮はどこにでもありますので、何かこう新しいものが良いですよね」 「新しいもの」 「ええ」 ここで菊子は、口を開いた。 「まずね。誰に食べてもらうのかが、大切じゃないかしら」 「とういうと」 「お土産なのか、地元の人なのか、それとも」 菊子はここで考えた。 ……値段を高くして売らないと、売り上げにならないわ。 今は工場の窮地である。安い品は他にあるため菊子はこの鮒を高価格で販売することにした。そのため菊子は、魚を卸している佐原の高級料亭の板前に相談することにした。 この日、魚を届けた菊子は勝手口で板長と話をした。 「金持ちが好きな味?それが分かれば俺だってそうしているよ」 「そうですよね」 弱り顔の菊子に、料亭「山田屋」の女将が顔を出した。 「まあ上正さん。この度は支払いが遅くてすみませんでした」 「いいえ。それよりもボヤで済んでよかったですね」 小規模の火事があったこの料亭は、支払いを待ってくれと菊子に相談してきた。高額取引の店であったが、これを了解した菊子に女将は金が入り次第、すぐに払ってくれた。そんな女将は菊子の亡き母の同級生であり、菊子の話を親身に聞いてくれた。 「菊子ちゃん。それには良い方法があるわ」 「それはどういったものですか」 女将は悪戯顔で話した。それに驚く菊子であったが、女将の作戦に乗る事にした。 ◇◇◇ 「本当にこの格好で良いのですか」 「思った通り、お似合いよ」 芸妓の恰好をさせられた菊子は、ドキドキで鏡を見ていた。 「でも、どうですか私の傷痕は」 「白粉ですっかり隠れたから気にしないで」 背後の女将はそっと肩に手を置いた。そしてしみじみ化粧をした菊子を見ていた。 「あなたのお母さんは『佐原小町』って言われたくらいの美人さんだったのよ。潮田のだんなさんも色男だったから菊子ちゃんは本当にきれいよ」 鏡越しで菊子を見る女将はどこか涙ぐんでいた。 「女将さん」 「……あの事故さえ無ければ今頃は、菊子ちゃんは良いところにお嫁に行っているのに」 そう言ってハンカチで涙を拭く女将に菊子は笑顔を見せた。 「それはもういいのです。それよりも女将さん。これで本当にお料理が分かるのですよね」 「ええ。もちろんよ」 女将の作戦は実際の酒席に顔を出し、その目で舌の肥えた客の様子を観察せよ、というものであった。今宵の宴の客は金持ちばかりと女将は笑みを見せた。 「品の良い人ばかりのはずよ。だから菊子ちゃんはそこで酌でもしていれば、旦那さん達がどんなものを食べるかわかるでしょう?」 「そうですけど。でも、私、配膳係りでも良かったと思いますが」 「それはだめよ!上正さんにみつかるもの」 今夜の菊子は、この料亭に手伝いに来ていることになっていた。これは女将の計らいであり、上正の叔母は菊子がこき使われると思い、嬉しそうに送り出してくれていた。菊子は顔を隠す意味もあり、こうして芸妓に扮してお座敷に出る事にしたのだった。 ……ああ、緊張するわ。 ここ佐原の町には芸妓がたくさんいるが、この夜は他のお座敷の予約で人手不足と聞いていた菊子は、恐る恐る酒の席にやってきた。 そしてやって来た五名の老齢芸妓は菊子の母を知っていたため、親切に仲間に入れてくれた。 「変な男がいたら、『姉さんに呼ばれている』って言って、席を立っていいからね」 「そうだよ。触ってきたらその手をつねっておやり」 「はい。ありがとうございます。頑張りますのでどうぞよろしくお願いします」 今夜の皺だらけ芸妓に菊子は挨拶をした。 ……せっかくの機会だもの。私も頑張らないと! 上正の加工場を守るために菊子は覚悟を決めた。そして宴が始まった。 配膳係りが食事を運ぶ中、菊子は徳利を持ち酒を注いでいた。 「おい、娘。酒だ」 「はい。ただいま……あ!」 「おい、何をしているのだ」 菊子はその男に驚いたが、彼は全く気が付いていなかった。 「すみません、どうぞ」 「こぼすなよ、まったく」 ……よかった、私だと全く気が付いていないわ。 隣の神崎にほっとした菊子であるが、ここで一人の参加者が宴席の正面に立ち挨拶をした。 「歓談中、恐れ入ります。私、佐原商店街組合の会長の八木でございます。今宵はこのように多数お集まりいただき誠にありがとうございます」 そんな挨拶の間、菊子は席の移動をしてはいけない雰囲気であった。そこでまずは神崎の食べているお膳を観察した。 ……お酒の席だから、お料理もそういうものね。 食事というよりも酒が進む料理を前に、菊子は神崎が箸を運ぶ様子を見ていた。 ……神崎様は、ずいぶんお残しが多いわね。 彼は選びながら食べている様子であった。菊子は見ないようにそれを見ていた。 やがてその理由がわかって来た。 ……そうか。神崎様は長ネギが嫌いなのね。 そのネギを必死に排除している彼に菊子は気が付いた。他の参加者達もそれぞれ手を付けない小鉢があることを菊子は発見した。 ……みなさん、ずいぶん好き嫌いがあるのね。 こんな観察をしているうちに、会長の挨拶が終り一同は拍手をした。そんな菊子に向かいの席の男が手を上げた。 「おい。お前、熱燗がぬるいぞ」 「はい。ただいま」 酒を注ぐしかできない菊子は、必死にお座敷を回っていた。その時、ふと、誰かが自分をじっと見ていることに気が付いた。 ……まずい、この人は。  菊子は彼を避けていたが、やがて彼に手招きをされ、恐る恐るそのそばに来た。 「どうぞ」 「やはり……菊子さんだね。なぜ君がこんな席に」 「あの?まずはどうぞ。ささ、どうぞ」 彼は酒を飲みながらそっと囁いた。 「もしかして、とうとう上正の家を出たのですか」 「笹山さん。これは仕事なのです」 「仕事って、上正さんは知っているのですか」 「違います。あの、その、色々ありまして」 「菊子さん」 すると、笹山は菊子の手を握った。 「あのお手を」 「……」 じっと見つめる彼に、菊子は困惑していた。 「お願いです、私は調査に来ただけで」 「調査?」 その時、彼を呼ぶ声がした。笹山はその手を離した。 「笹山さん。これはどうも。先日の融資ではお世話になりました」 「……いやいやこちらこそ」 「あの、今よろしいですか?あの時の契約の条件についてですが、ちょっとですね」 「私、失礼します」 ……はあ、危なかったわ。 笹山は地元の銀行、三菱館の銀行員であった。上正に出入りしているため菊子は彼を知っていた。いつも冷たい態度であった彼が自分を見抜き、話かけてきたのが意外であったが、菊子は貴重な調査を続行した。 料理はいよいよ魚料理が運ばれていた。酒が進む中、男性たちはそれぞれ箸を運んでいた。 ……味もさることながら、食べやすくしないと食べないのかもしれないわ。 ここは料亭であり安い料理ではなく焼魚などは出てこない。それでも今宵は板長の誇りを掛けた多彩なものが出されていた。鯉の刺身は定番であるが、他にもその中で比較的食べられているのは、意外にも小魚であった。 ……鯉のお刺身は誰でも食べるけど、そうか、「小魚の煮付け」、「酢の物」ね。 骨まで食べられるもので、一口で食べられるものを客は好んで食べていた。これを菊子は間近でじっくり観察していた。 「おい、酒だ」 「はい。ただいま」 思わず我に返った菊子は、太った男に酌をした。その前には神崎がおり、その隣には彼の部下の勇作がいた。三人は仕事の話をしていた。 「例の駐車場の土地の事でお世話になります」 「神崎さんの頼みを断れないですよ」 「ありがたいです。うちの社長もそのように申しております。ははは」 しかし、菊子の隣の席の清磨は疲れた顔で静かに座っていた。あまりに顔色がすぐれない彼に菊子はつい、心配になった。 そんな清磨には客が次々と酒を注ぎにやってきた。彼はこれを無理して飲んでいる様子だった。 ……もう、神崎様はこれ以上飲むのは無理よ。 そこで菊子は誰も見ていない隙に、清磨の杯の酒を飲み終えたお椀の中に入れて空にした。そうとは知らぬ彼らは酌を交わそうとしていた。 「神崎さん。ささ、一献どうぞ」 「ありがとうございます。あれ」 いつの間にか空になっていた杯に一瞬驚いた清磨であったが、相手から酒を注いでもらった。そしてそれを何気に飲まずに置いた。 不思議そうにしていた清磨は商談を勇作に任せ、お膳の料理を食べようとしていた。そして芸妓に声を掛けた。 「おい、お前。箸はどれだ」 「こちらですよ」 「ああ。お前が使え」 「え」 清磨は真顔の芸妓姿の菊子を見た。 「食っていいぞ」 「私がですか?」 ああと彼はうなづいた。 「腹が減っているのだろう。お前」 自分をじっと見ている清磨に菊子の胸は高鳴った。 つづく
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