憑依する俺〔4-2〕君と離れた理由

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 8月から3(みつき)を過ぎてもやまない雨にうたれ,街路樹はしなだれながら彩りの季節を経ずして落命した黄土色の(くた)れ葉を道端に堆積しつづけている。ずぶ濡れの老婆が転倒しそうになるのを助けおこし彼女の身を支えて細い歩道を行けば,すぐ傍らにアスファルトと同色のバンが急停車する。家族の手を借りて乗車した老女が音もなくスライドした扉の曇り硝子に顔面を近づけ「お・ん・に・き・る」と口形だけで伝えてニタリと笑った。  バンを見送ってから,もと来た道を行く。車道へ背をむけて歪んだガードレールに座る少年が目に入る。青い半袖のTシャツとジーパンという軽装だ。  少年に傘をさしかけているのは――ああ,グラマラスな八頭身スタイルで異国情趣漂う超絶美人の屠羽房(とうぼう)愛子(あいこ)だ。 「愛子さぁ~ん!」俺は愛子と少年に駆けよった。 「あら,珠緒(たまお)さん……」艶めく長い黒髪を靡かせ,はにかんでみせる。二重人格者の今の彼女は白の愛子だ。「この子ね,名前も言わないの」 「おい,少年! こんな綺麗で素敵で高貴で優雅で慈悲深いこの世の者とも思われぬ美貌のお姉さんが,話しかけてくれてるのに名前ぐらい答えなきゃ罰あたりじゃねぇか」 「ちょっと,珠緒さんったら……」頰を染めて俺の腕をつっついてくる。何て柔らかな触感なのか。至極の時間だ…… 「全く煩わしい」少年が呟いた。 「何だって? 年下のくせして態度でけぇな……」  雨がざっと強くなる。久々に雨に降られた。式神 雪灰(せつばい)と同居をはじめてから雨とは無縁な日々を送っていた。  少年がガードレールから腰をあげ,ふらりと歩きはじめたが,すぐさま胸を押さえてうずくまった。 「大丈夫!――」愛子が正面に回りこみ少年の両肩を抱いた。 「おまえ……」俺は腰を屈め,少年の顔を覗きこむ。「……どっか調子悪いんじゃねぇ?……」  少年の眼瞼がかっと見ひらかれるなり,その奥の瞳が青く揺らめいた。「腹が空いているのさ。昨夜から人間を食べていない――」  少年は愛子に摑みかかり首筋に尖った歯を剝いた!―― 「そうはさせるか!――」愛子に憑依した。そう,俺は生きものに憑依できる特異体質のもち主なのだ。  愛子の体にのりうつった俺は少年をねじふせた。「優しくしてもらった相手に,それは違うだろ」 「おまえは普通の人間ではないな。一体,何者だ?」青い瞳をいっそう濃くして歯軋りをする。 「おまえこそ何者だ? 昨夜から食べてない? 人間をだって?! まさか,おまえ,人間を食ったのか!!」 「ああ,食ったよ,数えきれないほど――」  少年の頭をアスファルトに叩きつけた。 「ふほほほほぉ!――」少年が笑う。まるで応えていない。「人間は体力を回復させるための最適な栄養源なのさ。かの平安の世から朕は人間を餌としてきたのだ」 「平安の世だって……」  硝子張り四面の破裂するような不快音が響き,爆水が落ちた。俺の宿る愛子の体はうねった汚水に巻きこまれ,電信柱に激突した。愛子の意識は疾うにない。電信柱につかまり激流にさらわれないよう堪えた。その眼前を無数の人や車が流されていく。数秒のうちに道路は大河と化した。狂ったように降りしきる雨に水嵩は刻々と増し,視界は奪われ,矢を浴びているような激痛が全身に走る。  雪灰のはる結界に護られていた俺はここ数箇月雨に降られることはなかった。その俺が狂雨に襲われている。  雪灰の言葉を思いだす。「僕の結界は君の優しい心で保たれている。結界が破れるなり君に仕える僕も忽ち見つかってしまう」――そう言って雪灰は慄然とした。もしてかして,そうなのか――  濁流に仁王だちする少年が両腕を掲げ雄叫びをあげた。「朕こそが万物の支配者 雨宮(あまみや)なり!」  間違いない。俺が彼を制しようと荒ぶったために結界が解けた。その元凶となった少年こそが雪灰を捜しているという式神なのだ。  だったら雪灰,早く逃げろ。捕まったらヤバイことになるんだろう――  珠緒こそ一刻も早く逃げて!――脳裏に雪灰の声がこだました。  腕を摑まれた。少年が眼前にいる。 「今,破れた結界は雪灰のはったものだ。おまえは陰陽師か? 雪灰を使っていたのか? 雪灰は何処にいる?」 「そういっぺんに質問されちゃ答えられるもんも答えらんねぇ」  指がポキリと音をたてた。痛みが後追いする。小指を折られたのだ。愛子の白魚の指を!―― 「ふざけやがって!」雨宮の胸を飛び蹴りした。  雨宮は微動だにしなかった。それどころか俺は落下するなり濁流にのまれ,水中で自動車や金属片にぶつかり,愛子の全身のあちこちを傷つけてしまった。 「くそっ!――」やっとのことで頭だけ水面から突きだす。 「雪灰の居場所を吐く気になったか?」雨宮が水上を滑ってついてくる。「女のなかに隠れていないで出てきたらどうだ。このままでは女の身がもたないだろう」そう嘲笑い,愛子の頭を蹴りあげた。  水中に潜り,押しよせる障害物を辛うじてかわしていく。 「おまえが出てくるならば,女は見逃してやってもいいぞ」雨宮が言った。  俺は流木によじのぼった。「本当か,愛子さんは助けてくれるのか!? なら,この体を安全な場所に避難させてまた戻ってくるから。それでいいな――」 「いいわけがないだろう」  回し蹴りを食らって濁流に再びのまれる。  ぜってぇー許さねぇ!! どうやったらこの綺麗な顔に蹴りなんぞいれられるんだ!!! 「女を捨てろ。この暗黒の海にくれてやれ」哄笑が反響した。  水流の動きが突然とまった。濁った水が瞬時に色を失い,かたく凍りつく。だが俺をつつむ白いザラザラした水だけはとてもあたたかい。 「何処へ行った!? 何処へ隠れた!!」半狂乱で右往左往する様子が見えた。 「僕はここだよ。もう逃げないから珠緒に意地悪するのはやめて」白髪の勝る胡麻塩頭の男が現れた。雪灰だ。  駄目だ,駄目だ! あんなに恐がっていたくせに何で自分から捕まりにきたりするんだ! 「……何だ,おまえか……おまえが隠したのか……」雨宮はぼんやりと雪灰を眺めていたが,にっこり笑って両手をさしのべた。「もういい。さあ,一緒に帰ろう。おまえが帰ってくれば雨宮はそれでいい」  雪灰は胡麻塩頭をぼりぼりと搔いた。ふけと長髪が氷上に落ちるなり瞬く間に消失する。 「おまえが旅好きなのは知っている。しばらく1人旅を楽しみたかっただけなのだろう。だがもう十分だろう。もうお勤めに戻ってこい」  雪灰は一歩退いた。 「雪灰?……」雨宮の表情が強ばった。 「お勤めには戻らない。式神が万物を支配する世界など――僕はつくらない」雪灰はきっぱり言いはなった。「それが僕の君と離れた理由なんだよ」  彼の放胆な姿を目にするのは初めてのことだった。何か意を決していると直感した。それは一抹の不安になりかわり次第に重い確信へと増幅しながら俺を焦燥へと駆りたてていくのだった。
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