第一章:困惑困憊

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第一章:困惑困憊

 はぁ… 短い溜息と共に水平に放たれた平石は水面を4度跳ねる。まずまずだ。 …アポイントも取らず、いきなり事務所に押し入るような気概は生憎持ち合わせいない。 というよりも、今自分が置かれている状況を整理する方が先だった。 日付は墓参りに行った次の日の5月12日の正午近く。バリバリの平日である。 意識がぶっ飛んでいる間にちゃんと有給でここに来てるか確認したところ、ちゃんと取っていたようだ。 …交通手段は恐らく…電車…?財布の中身にはあまり変化が見られない。 とりあえず、あとでカードの残高を見れば明らかだ。  意味不明なこの状況云々よりも、有給使ってまで何やってんだ感が強かった。 さっきの溜息の理由は、ここに尽きる。 _ ねえ桐山クン はい これ全部ホチキスで止めといて え…これ全部ですか? うん、3時までにお願いね。 あの… ごめん今急いでるから、じゃあね。 _ 有給使ってるからって、何やっても許されるわけじゃないのだろう。 ”こんなこと”で職場に一つ穴が開いて、誰かに迷惑がかかっているのは事実なんだ。 しかしそれでもなお俺の心は全く痛まなかった。 なんかスーっとしたぁ…それにしても…  この街の景観はハッキリ言って悪い。でも、これは今時さして珍しいことじゃない。 浅い川に掛かった短い橋、背の低い家屋群が立ち並ぶところに突然ズドンと、先ほど自分が立ち去ったマンションがある。 12階建て、4階層ごとに色が分かれており、下から緑、青、赤。 まるで田んぼのど真ん中に太陽の塔をぶっ刺したが如き圧倒的存在感と異質感を放っている。 あの… !? 突然背後から声をかけられて叫びそうになったが、咳をするフリをして誤魔化す。 間違いだったらすみません。 さっき、うちの事務所の前で立ち尽くしたと思ったら、そのまま帰ってしまったので… 「なんでもない。間違い。忘れてくれ。うちの…?」 2秒ほど思考が右往左往した。 ある意味真実に迫る千載一遇のチャンスではあるが、正直なところ、先ほど投げた平石と共にもう何もかもどうでもよくなりつつあった。 異質な雰囲気に気圧されたのかも知れない。 或いは、自分にはもはやそこまでの熱意が無いのだろうか。 だが、結局最後の選択肢を選ぶことにした。 別に叔父の為ではない。ここからはただの興味本位だ。もうどうにでもなれ。 実はですね、この方を探していたんです。あそこに勤めていると聞いていたので。 俺は写真をチラりと相手側に見えるように差し出すと、もっとよく見せろと言わんばかりに顔を近づけてきた。 若干気味が悪いと思い、ついに写真をそのまま手渡す。 お知り合い…ですか? …まあ、そんな感じですね。 そうですか。うーん、これ、喋っちゃっていいかわからないんですけど、  相手はじっ…とこちらの顔を見つめ始めた。こちらも相手の顔をよく見ておくか。 女性、年齢は…30手前?声の感じは軽いの一言。 「いかがですかー?」という一声がよく似合う。 細目、鼻筋はあまり通っていないが、小鼻で先端が尖っているように見える。 頬は若干やせて見えるものの、恐らく、中肉中背…? 悪い人じゃ無さそうだし、良いかな。 はぁ… この人ね、以前あの事務所で秘書をやってたんだけど、突然音信不通になっちゃったの。 いつ頃ですか? 去年の暮れぐらいかな~。あの頃は私もサブで勤務してたんだけど、急にいなくなったもんだから…  かつてこれ程までに電車の揺れを心地よいと思ったことはない。 無駄足。俺が一番嫌いなことだ。 夢うつつになりかけていた意識を正常に保とうと必死に瞬きをしていると、窓にもやもやとした黒い霧のようなものが見え始めた。 あーついに寝ちゃったか、寝過ごすのだけは勘弁だな。等と考えている。 …考えている…?俺は今、眠っているわけではない? よ 黒い霧の方向からあり得ない程気さくな挨拶がやってきた。 いやいや、これ俺のせいじゃないんだけどな…おかしいな… 等と小さくぶつぶつとボヤいている。  昨日のあの段階から意識がぶっ飛んで今日に至ってんのはお前のせいか? なぜだか知らんが、今全部思い出したぞ。 あ、それは俺のせい。でも、「全部思い出した」ってのは違う。 お前さんが俺を認識できているこの瞬間だけ、”記憶の共有”ができると言った方が正しい。  どういうことだ? 早い話、主導権はお前さんに無い。 俺が一方的に現れて、アンタはただその時だけ、俺を認識できていればそれでいい。  …俺は良くないな、特に気分が。 知らねーのそんなの。そんなことよりも、本気でヤル気あんのかなー? 本当は報復なんてどーでもよくなってるとか、そんなんなら俺もっとスゴいことやっちゃうけど…  この悪霊みたいなヤツの正体がなんなのかはとても気になるが、この際今はどうでもいい。 「もっとスゴいことやっちゃう」 ここに一切の冗談が含まれていないということだけが分かっている以上、選択肢は一つしか残されていない。 こんな、やる気のない脅し半分で行われる報復なんかで、果たして叔父の魂は浮かばれるのだろうか…?
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