過去/冬から梅雨

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 ***  桜が散り春が消え、季節は梅雨になった。街の中には、今度は至る所に色とりどりの紫陽花が咲いている。  六月の最終日。今日も俺は、人に殴られに行く。季節が変わっても、住む場所を変えても、夏樹君の本名を借りて自分じゃない存在になってみても、やっぱり、殴られ屋は辞めなかった。いや、辞められなかった。 「イケモトさん、ですか?」  雨が降る夕方、約束の場所に行くと、もうそこには今日のお客さんらしき人物が立っていた。今日の仕事場は、少し古ぼけた二棟の雑居ビルの間。幅は二メートルもないような、狭い通路のような空間だった。両側の壁には、室外機や配管がごてごて設置されている。薄暗いし、入り口には人の侵入を防ぐように鮮やかな紫陽花が咲いていて、そんな、普通の人なら入って行かないような場所に、黒いキャップを目深までかぶり灰色のTシャツとジーンズというラフな格好に身を包んだ青年が、傘も差さずにじっと立っていた。通路の入り口から、連絡を取り合っていたSNSのアカウント名で呼びかけると、彼は振り返る。無表情のまま頷く彼に、俺は愛想よく笑いかけた。 「はじめまして。今日は、よろしくお願いします」  灰色の雨が、頭上から降り注いで、髪や頬を濡らしていく。イケモトさんも傘を持っていないけど、俺だって持ってなかった。どうせ、殴られている間は傘なんて差せないし、と思うとめんどくさくて。あと、どうなってしまってもいい身体を、濡れないようにわざわざ傘で守るのが、なんだか気に食わなかった。  ビルに挟まれた、閉鎖的で人目に付かないその場所に、俺も足を踏み入れる。まるでこの空間を隠すように咲いている紫陽花を、足でかき分けながら。  イケモトさんも、ゆっくり、こちらに近づく。そして、制服姿の俺をじっと見つめて顔を暗くゆがませた。手には、一本の錆びついた鉄パイプが握られている。  今日は、イケモトさんの希望で、俺は制服を着ていた。もうブレザーは羽織らずに、夏服。夏樹君のじゃなくて、元から自分が持っていた方だ。  お客さんの過去に何があるのかは知らない。でも、制服姿の俺に向ける、彼の顔の中にある感情は、明らかな嫌悪だ。彼もまた、胸に詰まる何かを発散するために、ここにいる。そんなことをしても、多分何も変われないのに。  ――ドスッ。  にこにこ愛想笑いを浮かべていると、突然、彼は鉄パイプを振り上げた。左肩に鈍く衝撃が伝わる。よろけると、今度は腕、脚、お腹。  今日のお客さんは、どうやらあたりのようだった。大人しそうだったイケモトさんは、打って変わって、夢中になって鉄パイプを振り下ろしていた。目を丸く剝き出しに見開いて、歯を食いしばって、一心不乱に。その光景は、自分のことなのに、まるでスクリーンに浮かび上がる映画を見ているみたいにどこか遠くて。ただただ、与えられる暴力を受け入れていた。  でも、そんな俺が気に食わなかったのだろう。お客さんは、鉄パイプを握る手に、ぐっと更に力を入れたようだった。  ごっ。鉄パイプが当たった脛が、鈍い音を立てた。 「あ゛ッ……!」  とんでもない声で叫んでうずくまる。今日一番の痛みだった。多分、骨が折れた。それもかまわず彼は、足を守るようにしゃがみ込んでしまった俺の背中めがけて鉄パイプを振り下ろした。衝撃で、地面に手をついて倒れた。  無防備に晒されてしまった折れた脚を、彼のかかとが踏みつけた。執拗に脚を攻撃する。きっと、逃げられないようにするため。  そんなことしなくても、逃げない。死にたいのだから。  肉の中で、脚の骨が砕け散っている。リュックの中で粉々になった煎餅みたいだ。そこにさらに、彼は鉄の棒を突き刺した。  ほとんど反射的に上げてしまう叫び声は、両側にそびえるビルの壁に反響して、吸い込まれていった。乾いた目から生理的な涙が頬を伝う。でも、すぐにそれは降り注ぐ雨によって、流れ落とされてしまった。  痛い。痛い。痛いことしか考えられない。  でも、それが、よかった。  身体が痛いと、心が痛いのをごまかせるから。  もう、殴られるのが、癖になっていた。  強制的に痛みに集中させられる、この時間だけ、全部忘れられる。  ゴッ、と、今度は腰に重たい衝撃が広がる。脚に飽きた男は、今度は腰を粉砕しようとしていた。びりびりと、脳みそまで痺れていく。のけぞって悶える身体に、彼は容赦なく追撃をくらわした。暫くして、どこか神経をやられたのか、ピタッと身体が動かなくなった。  動かない俺を足で蹴って仰向けに転がす。涙と汗と涎、さらに雨で濡れてぐしょぐしょの顔を、男の冷ややかな視線が見下ろした。ビルに囲まれた、はるか遠くの空は、重く灰色にのしかかっている。振り下ろされた鉄パイプが、今度は鎖骨を破壊した。骨が割れる音が、はっきり耳まで届いた。  あ、多分この人、俺を殺そうとしてるんだ。  そう思うと、急に意識が雨に融けていくような気がした。  もう、まともに呼吸ができない。息を吸おうとすると体中が痛くてすぐ吐き戻してしまう。ほとんど虫の息だった。こんな感覚は、久しぶりで。  死ねる。そう思った。  ――――ゴスッ。  鈍い音を立てて、頭に冷たい金属がぶつかった。頭蓋骨の内側で重く衝撃が反響して、脳が揺れる。 「い゛ッ……」  ほぼ反射的に、喉から掠れた声が漏れ出た。身体が痙攣しているらしかった。でも、その間にも、鉄パイプは何度も頭に振り下ろされ続ける。視界の中で血しぶきが舞って、それを最後に、目の前が真っ黒になった。
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