過去/冬から梅雨

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過去/冬から梅雨

 ――これは俺が、涼花ちゃんに出会う前の話。  *** 「はい、これ」  そう言って、男は茶色い封筒を差し出した。ぺらぺらした安っぽい封筒。受け取ると、その薄い袋の中に、一枚、紙幣の厚みを指先に感じた。だけど、そんなこと微塵も顔に出さずに、俺はにこりと笑って、 「ありがとうございます」  と、口を開く。  目の前の男も、にこっと爽やかそうな笑みを浮かべた。年齢は、二十六歳。職業はホストだと言っていた。人気もかなりあるようだ。以前、街を歩いているときに、偶々、彼が所属するお店の前を通りかかったことがある。そこには、微笑んでこちらを見つめる、まるでアイドルの宣材写真のようなポスターがいくつも貼り出されていて、その中に、確か彼の顔もあった。顔も身なりも整っていて、背が高くて、女の子から見たら王子様みたいに見えるのかもしれない。遠くの街灯にうっすら照らされた、髪にも肌にも表情にも、“売り物”としての精神が染みついているようだった。  でも、今は俺の方が“売り物”だ。彼は俺を買っているのだから。  時刻は夜十時ごろ。通常なら、ホストの彼はネオンきらめく繁華街で女の子たちに笑顔を振りまいているような時間だが、今日は店休日らしい。  明るい街の中心から少し離れた場所にある、昔はどこかの会社の社員寮だったらしい廃アパートの駐車場に、俺たちはいる。周辺には住宅が並んでいるが、アパートと駐車場の周りが塀で囲まれているのと、街灯が少ないのとで、外から俺たちの姿は見えないだろう。受け取った封筒をリュックの中にしまい、その辺の地面に置く。周囲に人の気配がないのを確認すると、俺はいつもの愛想笑いを浮かべながら、“今日のお客さん”に向き直った。 「じゃあ、始めて」  暗い中で、そう声を出すと、口元からふわっと白い息が舞い上がった。十一月後半の今日は、もう立派な冬だった。日に日に気温が下がっていく。鼻先や指先が冷たい。  目の前の男は、一瞬、迷いのような感情をその両眼に浮かべた後、ギュッと目を瞑った。そして、再び目を開いたのと同時に、突然、こぶしを振りかざす。頬に鈍い痛みが与えられる。そして次に、どすっと、お腹に重たい衝撃を受けた。うっと、吐き気がこみ上げ、胃の奥から甘い香りが昇る。ここに来る前、寒さに耐えかねて、近所のファミマでホットレモンを買って飲んでしまっていたのだ。反射的に口元を両手で覆うと、追加でもう一発、今度は横腹を殴られた。立て続けに、さらに何度かまたお腹あたりを殴られて、ふらっと、自分でもびっくりするほど力が抜けた。  膝から崩れ落ちる。お腹を押さえて背中を丸めながら、地面にペタンと座り込んだ。  彼は、細身だが、身長は180センチほどあるようだった。“仕事”とはいえ、自分よりも15センチは背の高い男に殴られるのは、やっぱり苦しい。  俺は殴られ屋だ。週に二、三回、俺は自分の身体を“商品”として客に売り渡し、好き放題扱われている。だから、俺の“仕事”は、殴られること。暴力を振られること。  座り込んで、身体に残る痛みに耐える。まだ胸のあたりから、吐き気が上ってきそうになるけど、ぎゅっとおへそのあたりに力を入れて堪えた。  ――でも、これじゃ死ねないな。  ひび割れたコンクリートの地面を見つめながら、俺はぼんやりとそう思った。   「君、女の子みたいな顔してるね」  暫くして、頭上から降ってきた言葉に、俺は顔を上げた。静かな声のトーンだった。地べたに座る俺の前に立ちはだかる彼の顔は、暗くて細部まではわからない。でも、凍った鉄のような、冷たい雰囲気で見降ろしている気がした。女の子みたいな顔、という言葉に関しては、他の客からもよく言われるのでもう慣れてしまったけど、彼のその口調や表情からは少しばかり棘を感じる。 「僕のお客さんにも、君みたいな綺麗な顔をした子が沢山いるよ」  言いながら、俺の目線に合わせるように、彼はその場にしゃがむ。やっと近くで見たその表情は、うっすらと口元に笑みを浮かべていたが、その瞳には爬虫類を思わせるような異様な気配があった。  彼の手が、すっと、俺の顔の前に近づく。肩をきゅっとすぼめて身構えた。でも、予想外にも、彼のその手のひらは俺の頭を優しく撫でていた。温かい骨ばった手が、髪の流れに沿って上から下へ何度も滑り落ちる。彼はそのまま、口元にだけ微笑みを湛えながら、言葉を続けた。 「女の子たちはね、みんな可愛くて綺麗。この仕事を始めたときは、本気でそう思ってたんだ。でもね。今はそうは思えない」  俺の頭をふわふわ撫でていた手の動きが、ピタリと止まる。彼は既に笑っていなかった。 「あいつらは、人語を話す寄生虫だよ。誰かに依存しないと生きていけない。優しさを見せればすぐに付け込んでくる。全部、営業でやってることなのに。でも、勝手に自分だけで想いを募らせて、理不尽にもぶつけてくるんだ。受け入れてもらえると信じてね。……醜いと思わない? 僕は耐えられない。いっそ全部めちゃくちゃにして失望させてしまえたらいいのに。……でも、仕事だし。女の子(お客さん)に酷いことはできないからさ。どんな感情を抱かれてても。我慢して、笑ってなきゃ」  淡々と、舞台俳優が決められた台詞を言うように、言葉を吐き出し続ける彼の口を、俺は黙って見つめた。  俺を殴る前までと、まるで雰囲気が違う。正直、今日彼と初めて会ったとき、彼があまりにも“普通の人間”に見えたので、俺は内心驚いていたのだった。ホストという職業からくる特殊な雰囲気はあったものの、彼はとても健康そうに見えた。確かに、彼の仕事柄、ストレスが溜まることは多いのだろうけど。でも、少なくとも、お金を払ってまで誰かに暴力を振りたい、なんて考えるような人間には見えなかったのだ。それが、今目の前にいる男は、その声色こそ落ち着いているものの、背後には黒い影を感じる。  俺を買う人間は、必ず何か不満を抱えている。満たされない想いを、退屈な毎日を、抑えている感情を、否定している欲望を、発散させるために俺――“殴られ屋”を、買う。  彼は、本来なら自分のお客さんに対してぶつけたい感情や破壊欲求を、代わりに俺で満たしたいのだろう。つまり、今の俺は彼のお客さんの“代役”。  そう、思った、そのとき。  頭の上に置かれていた彼の手が、いつの間にか俺を後ろに押し倒していた。強い力で、固い地面に背中が押し付けられる。そしてそのまま、彼は俺に跨って、両手で首を絞めた。  ゾク、ゾク、ゾク…………。  コンクリートの冷たさが背中から身体に這い上って、身震いした。冬の夜に冷やされた地面が、ちゃんとコートを着ているとはいえ、体温を吸い取っていく。そして、それ以上に、首元を絞める彼のごつごつとした指先も、凍えるほど冷えていた。  喉の奥が詰まる不快感。急なことに、そんなつもりはなくても、拒絶するように身体が動いてしまった。俺の首に力を加えるその両腕を、思わず掴んだ。 「……抵抗しないで。君は今、俺に買われてるんだから。何をされても、我慢して、ね?」  たしなめるように、言い聞かせるように、彼は言った。  真っ暗な瞳に、俺の姿が映っている。薄ら笑いを浮かべる彼は、再び口を開き、 「“お客さん”のいうことは、きかなきゃだめでしょ?」  そんな言葉を放った。  昏い興奮を帯びる、彼の死んだような目。  ひゅっと喉の奥が引き攣った。  気が付いた。  彼は、俺を女の子(お客さん)に見立てて暴力を振るっているわけじゃない。彼が俺に重ねているのは彼自身――客に何をされても抗えない“売り物”としての自分の姿を、俺に押し付けているのだ。  これはただのストレス発散じゃない。彼が、俺を買った理由は。自分の苦しみを他者にも味合わせたい、そんな歪んだ嗜虐心だと、俺はようやく理解した。  ぎりぎりッ。彼の爪の先が、首に食い込んだ。  予期せず、死の予感が脳内をかすめる。俺は、望み通り、彼の腕から両手を離した。ただの人形のように、身体から力を抜いて目の前の暴力を受け入れる。  途端に、頭に血液が届かなくなる感じがした。  首元の圧迫感も苦しさも、わからなくなる。  ふっと、視界がブラックアウトした。  このまま順調にいけば、死ねるのかもしれない。本当は、今日の客には期待してなかったけど。でも、不意に彼の手は、俺の首元から離れてしまった。 「――っは……! はっ、はあ、ぁ……」  締まっていた場所に、勢い良く空気が流れ込んだせいで、かえって苦しかった。冷たい空気が、肺をきりきりと蝕む。呼吸を整えながら、暗転したままの視界の中でもがいた。  数秒後、小さな砂粒が飛散するかのように、じりじりと目前を覆う黒が消えて、あたりの景色が戻って来た。  ゆっくり回復する視力の中、目に入った彼は俺に跨った格好のまま、何故か少し引いたような顔をしていた。 「君、今、……」  彼は、それだけ呟くと、口を閉ざした。そして、さっと静かに立ち上がる。彼に組み敷かれていた俺は、急に拘束から放たれて自由になってしまった。でも、なんとなくまだ起き上がることはせずに、寝転んだ格好のまま彼を見つめる。首と背中が痛い。 「……なんで、“殴られ屋”なんてやってるの?」  唐突に、彼は質問した。  その質問に、答える気はないけど。何か言うふりをして口を開き、息を吸い込むと、丁度良く咳き込んだ。その姿を見下ろして、彼は勝手に気の毒になったのか、ふっと視線を逸らした。 「君は……□□君は、見たところ、まだ十代だろ? 身体を切り売りする様な……こんな方法でお金を稼ぐのは危険だし、トラブルに巻き込まれる可能性も……」 「おにーさんこそ、なんでお仕事続けてるの?」  言い訳でもするときのような態度でぶつぶつと喋っていた彼の言葉を遮り、逆に問い返した。あえて、子供っぽい無邪気な顔で。  彼は、途端に口を閉ざした。妙な間が開く。  殴られ屋を、“身体を切り売りする仕事”と表現するなら、彼だって精神を切り売りしている。でも、実際、俺の身体はんだけど。 「……ごめん。変なこと訊いた。それに、つまらない愚痴を聞かせた挙句、首も絞めちゃって。僕はもう満足したよ」  答えの代わりに一気にそう言うと、彼はジャケットのポケットから財布を取り出した。一万円を引き出してこちらに差し出す。 「え、もう、お金は貰ったけど……」 「これはお礼だよ、貰っといて」  彼は、さっとしゃがんで、依然として寝ころんだままの俺の手のひらに紙幣を持たせると、また立ち上がった。もう帰るのだろう。こちらに背を向けて、そのまま歩き出す。  しかし、数歩進んだところで、彼は振り返ると、 「気を付けてね。さっき、君、なんだか死にそうに見えたから」  と、少し控えめな声で、そんな言葉を投げかけた。俺は返事をしなかった。  首を絞めた張本人が、そんなことを言うのはおかしな話だ。それに、その心配はお門違いもいいところである。俺にとっては、滑稽極まりない。  再び、彼は歩き出す。 「あーあ、やっぱり、今日もダメだったな……」  去っていく後ろ姿を見つめながら、聞こえないように呟いた。  俺を買う人間は、必ず何か不満を抱えている。満たされない想いを、退屈な毎日を、抑えている感情を、否定している欲望を、発散させるために、“殴られ屋”を買う。  ――でも、殴られる側にだって、願いはあるんだ。  男の靴底がコンクリートを蹴る音が、遠ざかる。その後ろ姿がすっかり闇に溶けて見えなくなったとき、俺は一万円を握りしめて体を起こした。 「さーて、ご飯でも食べて帰ろうかな」  数日後、この街のホストが客の女に刺される事件が発生した。幸い、腕を刺されただけで傷は浅く、命に別状はないらしい。  刺された人物が彼かどうかはわからない。噂として出回っている話を聞いただけだし、わざわざ確認することもない、と思っていた。  でも、そのホストは、店を辞めたそうだ。
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