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ざっ……、ざっ……びちゃっ、がさがさ。
恐る恐る、といったような。水たまりを踏んで引きずるような足音が、微かに耳に届いた。
「だ……大丈夫、ですか……? きっ……、聞こえてたら、へんじ……」
続いて聞こえてきたのは、気の抜けたようなか細い震え声。多分、女の人の声だ。続けて、ばさっと、何かが落ちる音もする。重い瞼を、ギュッと細く開けてみる。さっきまでと変わらない、薄暗いビルとビルの間の空間に、誰か人影が立っていた。そのすぐ後ろに、傘らしきものも転がっていて、きっとさっきの “ばさっ”、という音は、あれが落ちた音だと、ぼんやり考えた。
…………人に、見られてしまった。多分、最悪な状況を。
自分では自分の姿を確認できないけど、大量に血が出てるはずだし、傍から見たら死体同然なんじゃないだろうか。でも、俺はやっぱり死んでないみたいだけど。
上手くいったと思ったのに。死にたかったのに。期待してしまった分、目覚めの気分はすこぶる悪い。おまけに、この姿を誰かに見られてしまうなんて。
バラバラと、まだ止んでいない雨が、容赦なく身体を濡らしていた。夏服の半袖シャツの腕が、もうすっかり冷えてしまっていることに気が付いた。体の内側が空洞になったみたいな虚無感に襲われる。でも、確かに、自分の心臓の鼓動は続いていて、糸が解れていくように、静かにすべてが嫌になる。湿気に混じる血の匂いも、雨音も、濡れて冷たい身体も、全部、煩わしい。
雨と、目元で固まっている血のせいで視界が濁っていて、俺を見下ろす誰かの姿は、モザイクがかかったように不明瞭だった。おまけに、まだ身体も動かなくて。
俺は、目だけ動かして、すぐそこにいるその人をじっと見つめようとした。華奢なシルエット。髪の毛の黒と、シャツの白と、揺れるスカートの輪郭はわかる。やっぱり女の人だ。
彼女は、「警察を呼びます」とかなんとか言いながら、多分、鞄からスマホを取り出そうとしている。でも、端末は彼女の指の間をすり抜けたようで、カツンと地面にぶつかる音が遅れて響いた。落ちたスマホを拾い上げようと前かがみになった彼女の視線が、こちらを向いたようだった。
「ひっ……!?」
俺が目を開けていることに気が付いたのか、彼女が悲鳴を上げる。スマホに伸ばしていた手は何も掴むことなく引っ込められて、彼女は一歩後ずさった。
「……警察は、呼ばないでください」
なんて言おうか迷って、とりあえずそんな言葉をかけた。警察は、呼ばれたらめんどくさいと思った。それに俺、死んでないし。傷も治るし。そんなの、必要ない。
でも、それでは納得しなかったらしい彼女は、こちらを凝視したまま、その場で固まっている。そして、暫くして、彼女は、
「……じゃあ、救急車、ですか……?」
と、問いかけた。
「それも大丈夫です」
俺はすぐに断る。
でも、
「大丈夫じゃ、ないでしょ……!」
スカートのすそをぎゅっと握りながら、彼女は突然、声を大きくした。きーんと、耳に響く。相当深く頭に傷が入ってしまったようで、まだじんわり痛い。もしかして、まだ頭の傷治ってない……? たらたら血が抜けていく感覚がある。
ぼんやりしていると、相変わらず霞んでいる視力の中、彼女はなんだか泣きそうに声を引きつらせて、
「出血すごいし……このままじゃ、」
何かを言いかけて、言葉を切った。
多分、彼女は「このままじゃ、死ぬ」と言いたかったのだろう。何も知らない人がそう思うのは、きっと当たり前だ。
だんだん、頭がはっきりしてくる。出血が止まったみたいだ。動けるかも、しれない。
俺は、体を起こそうと手を動かして上半身に力を入れる。「動くな!」と叫ぶ彼女の声が聞こえたけど、俺はしっかり身体を起こしてしまった。
はっと、彼女が微かに息を呑む音が、耳に届く。立ちすくんでいる彼女の目線の先は、きっと俺の頭。多分、傷が治ってしまったのを見て、驚いてるんだ。
見られてしまった焦りと混乱。それに、死に損ねた不機嫌が混ざって、お腹の中で渦を巻いていた。どうしたらいいのだろう、この状況。
「俺、死ねないんだよね」
徐々に回復する視界の中、目を見開き固まる彼女の表情を見上げて、とりあえず俺は一言、そう言って笑ってみた。
ゆらり。
立ち上がってみたら、思ったより体がふわふわする。貧血かな。でも、またここでぶっ倒れたりしたら、いよいよこの女の子に警察だの救急車だのを呼ばれてしまうかもしれない。俺は、ぐっと両脚に力を入れて、何事も無いようにしっかり身体をまっすぐ立てた。そして、俺より少しだけ目線の低い彼女の姿を、改めて両目でとらえる。
そのとき、ようやく、俺は目の前の彼女に見覚えがあることに、気が付いた。
間宮涼花だ。
名前を思い出して、でも、口にも顔にも出さなかった。多分、相手は俺に気付いていない。俺は今、血だらけだし、真面目に学校に行っているわけじゃないし、そもそも顔を覚えられていないのかもしれない。
彼女が履いているスカートは、制服だった。そして、もう明日には七月になるというのに、まだ長袖のシャツを着ている。彼女は、俺と目が合うと少しびくりと肩を揺らした。
ふと、足元に、彼女のスマホが落ちているのが目に入った。俺はそれをさっと取り上げて、「はい」、と彼女に手渡す。
「ぁ、ありがとう……」
小さな声で礼を言いながら、彼女は受け取ったスマホを握りしめる。彼女のボブくらいの長さの黒髪は、すっかり雨に濡れて深く艶めいていた。その顔には、いろんな絵の具をいっぺんに混ぜたような、複雑な表情が浮かんでいて、さらに上空から落ちる水滴が濡らしてゆく。教室で静かに本を読んでいたときの、彫刻のように微動だにしない横顔とは全く違う、初めて見る顔だった。
――不意に、彼女に、俺の身の上について話してみたくなった。
「俺の身体、細胞の再生がめちゃくちゃ早いんだ。だから、傷とか、怪我とか、すぐ治るの」
口を開いて、声にしてみる。淡々と、口元に笑みを浮かべながら。
物静かな彼女は、俺の話を、どんな風に聞くのだろう。まず、信じるのだろうか。試すような気持ちが、心の空白部分に浮いていた。普段の自分なら、あり得ないことなんだろうけど、でも、この状況で何も言わないのも変だし。
「いつこうなったとかもう憶えてないんだけど、もう百年はずっとこんな感じ。刺されても殴られても爆弾で吹っ飛んでも轢かれても飛び降りても、生き返る」
雑居ビルの壁に囲まれた薄暗い場所に、雨音と、自分の声が混ざって融ける。笑っている自分の口元に、頭から頬を伝って血を含んだ雨が流れ込む。鉄くさい味がした。
お客さんにも、夏樹君にも、言ったことがない話。初めて人に、話す、気がする。そう思うと、変な気持ちだった。彼女は、じっとこちらを見て黙っている。今のところ、その表情に大きな変化は見られない。
「……なんで、頭割れてたの」
彼女は、やがて、そう質問した。ガラス細工みたいな控えめな音声だった。
「殴られたの、鉄パイプで」
俺がそう答えると、彼女は、「なんで……?」と、再び疑問を口にした。彼女の表情には、微かに、疑いのような色が深まっている。
なんで? って言われても。
「……仕事なの」
これ以外に返事しようがない。案の定、彼女はどういうことかわからないというように、
「……は?」
と、声を漏らしていた。
仕事について、詳しく話すのはなんだか気が引けた。だから俺は、極めて明るく、楽しい話題でもするかのように、口を開いてみることにした。
「殴られ屋なんだ、俺。いくら死なないからって、お腹もすくしお風呂も入りたいし、ちゃんと寝る場所も欲しいじゃん。生きるのって、お金かかるんだよ。この変な体質も、しっかり活用すれば稼ぎになる。世の中にはね、男子高校生を半殺しにしてみたいって思ってる危ない人たちが沢山いるんだ。俺はその人たちの夢を叶えてあげるかわりに、お金貰ってんの。でもさすがに、さっきのは酷かったなぁー、回復に時間かかっちゃった。多分、相手も本当に殺したと思ってビビって逃げたんだわ」
一気に、喋った。口の端を上に引き上げて。
話の途中で色々質問されたり、殴られ屋の活動に関して、説教みたいに意見されるのは嫌だった。だから、ただただ、相手の心に引っかからないように、笑って話す。気でも触れたんじゃないかってくらい、自分でもびっくりするくらい、言葉が口から離れていた。喋りながら、俺は自分の視線がどこを向いているのか、だんだんわからなくなっていた。
だから、気が付かなかったのだ。
目の前の彼女が、どんな顔をしているか。
「なんでずっと笑ってるの?」
唐突に聞こえた声は、閉じていた世界をノックする。はっとして、質問した彼女の表情を、初めてしっかりと見た。
彼女は、一切、笑っていなかった。
強張った表情の中、本当にただ不思議そうに、真相を突き止めるための声と視線が、俺に向いている。まるで、俺が間違っていることを突き付けるような、綺麗な、澄んだ瞳だった。
無意識に、どきっと心臓が跳ねた。
学校での彼女は、いつ見てもずっとひとりだった。彼女はほとんど、クラスの人間の姿を見つめない。開いた本のページを見ているか、教科書を見ているか黒板を見ているか、窓の外を眺めているか。でも、その彼女の黒い両目が、今、まっすぐ、俺を見つめていた。
「……笑ってちゃ、ダメなの?」
俺は思わず訊いてしまった。
だって、冗談みたいに笑って話す以外、正解が判らなかった。こちらが笑って話していれば、相手も笑って聞いてくれると、思っていたのに。
じっと彼女の顔を見る。
無駄なものを取り払ったような、簡潔な顔。彼女のアーモンド形の目を見つめていると、その瞳の中に、微かに、困惑や恐怖のような影が差した。そして彼女は、さっと視線を逸らし、
「ダメってわけじゃないけど……」
と、言葉を濁した。
……ダメってわけじゃないって、なんだ。
俺のことを否定も肯定もしないような、下手な気遣いが見える言葉。でも確実に、彼女にとって俺はこの世界の異物だと、感じ取れてしまう。
俺と彼女の足元に、見えない境界線が引かれていく。彼女は普通で、俺は普通になりきれない。でも、俺のどこが間違っているのかを知ることさえ、「ダメってわけじゃない」という曖昧な彼女の言葉で、煙に巻かれてしまった。
なんだか、馬鹿にされた気がした。
「もしかして、可哀想だとか、思ってない?」
俺の言葉に、彼女ははっと顔を上げる。黒い瞳に、俺が映った。
「殴られて、血だらけになって可哀想だって。でも、俺が笑ってるんだから、余計なことは考えなくていいよ。勝手に考えたところで、無意味だよ。どうせ解らないでしょ、すぐ死んじゃうあんたには」
思ったより、冷たい声が自分の身体から出ていることに、驚いた。
左右を壁に挟まれた、薄暗い空間に、氷のように冷え込んだ自分の声が反響する。
目の前の相手の表情が、一瞬にして無になった。
怒ったのだろうか、そう思ったときには、彼女はもう俺の前から立ち去ろうとしていた。背を向けて、明るい方へ一歩踏み出す彼女。雨に打たれて、彼女の身体にひっつくように制服のシャツが濡れている。
ふと、その濡れた白いシャツの左腕に、何か青と黒の線が透けていることに気が付いた。目を凝らして、よく見る。
刺青だった。刺青の花が一輪、腕の中に咲いている。
なるほど、これを隠すために、彼女はまだ長袖のシャツを着ていたのか。理解した途端、心の中に暗い感情が渦を巻いた。
俺は、ぱしっと、その腕を掴む。怒っている相手に対してする行動じゃないと思うけど。でもなんだか、心の中に溜まるどす黒い感情が、まだ彼女を引き留めたがっている。濡れて冷たい布越しに、彼女の体温が生ぬるく伝わる。
「透けてるよ、刺青」
俺は、ただ、彼女に事実を教えてあげた。
途端、離せと言わんばかりに腕に力を込めていた彼女の身体が、氷のように固まった。そして、その顔は、俺が掴んでいる腕を見て、みるみる焦りで歪んでゆく。予想通りの動揺に、俺は味を占めた。もう一言、
「あんた、同じ学校の生徒だろ」
と、詰め寄る。ぎゅっと、彼女の腕を掴む手のひらに力を籠めた。
別に、そうしたところで、彼女をどうこうする気は無かったけど。怯えたような彼女の顔を見て、なんとなく、自分の狭い心が優越感で満たされるような気がした。
ところが。
「離してください!」
次の瞬間、彼女が思いのほか大きな声を上げたことで、俺の薄っぺらな感情は立ち消えた。彼女の叫びを聞いて我に返る。後先も何も考えない衝動に支配されていただけのこの身体は、簡単に彼女から手を離した。
その隙に、一目散に、彼女は走る。水たまりをバシャバシャ踏みしめて、雨の中に消える濡れた背中を、俺は茫然と立ち尽くして見ていた。
なんだったんだろう、今の自分。
頭を強く殴られた後で、さらに、倒れている姿を見られてしまって、きっと冷静じゃなかったんだ。だから、心が波立った。仕方ないじゃん。
自分を弁護する言葉が、台風のように頭に駆け巡る。でも、だからって、他人を傷付けて良い理由には、ならないんじゃないか……?
「あー、最悪だ……」
一人になって、呟いた。
冷静に、考えてみれば、多分、俺は彼女にただ黙って話を聞いてほしかっただけなんだと、気が付いた。よく知りもしない相手だけど、それに多分彼女は俺のことを覚えてすらいなかったけど、何故だか、彼女なら聞いてくれると、勝手に期待していた。
夏樹君がいなくなったときに気が付いた、寂しいという感情が、封をしていたのにまた溢れ落ちそうになっている。
濡れた地面に、透明な彼女のビニール傘が放置されている。俺は静かにそれを拾い上げ、暫くその場から動けずに雨に打たれていた。
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