過去/冬から梅雨

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 翌日、七月一日。  朝、俺は久しぶりに、夏樹君の学校へ向かっていた。  夏樹君から貰った方の制服に身を包み、昨日彼女が置いて行った傘を持って。  別に、彼女に謝りたいだとか、ただ傘を届けてあげたいだとか、そんな純粋な感情じゃない。でも、なんとなく、彼女を思い出すと鬱々としてしまう。  学校行きのバスに乗り込んで、一番後ろの席に座る。流れる街の景色の向こう、空には昨日のような灰色の雨雲は何処にもなく、全くの晴天だった。バスの車内には、俺の他にも、制服を着た学生がちらほら。俺は彼らから視線をそらし、朝日を受ける硬い窓ガラスにおでこをくっつけた。  四月に、最初に学校に行ってみたとき。そのとき、本当は、夏樹君が見ていた景色を俺も見てみたいという気持ちもあった。彼も不登校だったけど、でも、ちょっとでも、残された欠片を、探してみたかった。  だけど、教室には彼の痕跡どころか、夏樹君と俺が入れ代わっていることに気付く人間すらいなくて。そのくせ、そこにいる人たちはみんな楽しそうで。安心しきった顔の子どもたちばかり。クラスメートたちは、それなりの教育を受けてきただけあって落ち着いた雰囲気だったけど、守ってくれる大人に囲まれて育ったような、籠の中の鳥のような幼さがあった。俺は、その空気感が、苦手だった。自分の汚れきった身体や心が、教室の底で沈殿してしまっているような気持ちになる。そのくせ、どうしても羨ましかった。勝手な憶測だけど、きっと、夏樹君も同じような気持ちを抱いていたんじゃないだろうか。  でも。俺が本当に羨ましかったのは、夏樹君だ。  八畳のワンルーム。あんな狭い部屋、本気を出せば多分一日や二日で調査は終わってしまうはずだった。でも、彼は毎日、あの部屋を訪ねた。厚かましく、図々しく。大人しそうな雰囲気のくせに、彼は全く堂々としていた。他人の日常に入り込んで、何が何でもそこに自分の座席を確保しようとする。その我の強さが、俺は素直に羨ましかった。  学校前近くのバス停についた。傘を持って降車する。少し歩くと、白い校舎が見えてきた。その大きな建物の向こうに、張り付けたような青空と白い雲が見える。日差しも明るくて蝉も鳴いてて、この瞬間だけ切り取ると、梅雨を通り越してまるで夏みたいだった。季節はまた、確実に俺を置いていく。  他の学生たちに混じって校舎の中に入って、下駄箱で室内用シューズに履き替える。廊下を歩くと、ぱたぱたと慌ただしい生徒たちの足音が、後ろから前へ次々に、自分を追い抜いていく。そのたびに、ぎいぎい廊下の木目が音を立てて、より一層あたりを騒がしくしていた。対して俺は、何の音もたてないように、誰にもぶつからないように、静かに教室まで歩く。  廊下を歩き階段を上り、また廊下を歩き、目標の教室が見えてきた。  教室の入り口ドアは空きっぱなしで、中にいる生徒たちの、喋り声、笑い声が耳に届く。そんな平凡な朝の空気の中、俺は、息を殺すように、室内に入った。この瞬間は、やっぱり、緊張する。室内にいた学生たちは、みんな同じ制服を着て、でもそれぞれに友達との会話ややり忘れた課題を終わらせるのに夢中で、やはり誰もこちらの姿なんて見ない。もしかしたら俺は今、ちゃんと“普通の男の子”を演じることができているのかもしれない、なんて、一瞬だけおめでたい錯覚をしてしまいそうだった。  黒板の前、ドアから数歩進んだあたりで立ち止まる。教室を見渡して、彼女を、見つけた。  窓側から二列目の、奥の方。今日も、一人で席に座って本を読んでいる。  肩に付かない程の長さで切り揃えられた黒髪を、さっと耳にかけて頬杖をつき、黙って頁をめくっていた。朝だというのにもう既にエネルギーに溢れた室内で、彼女の周囲は時が止まっているように澄みきった静寂が包んでいる。冷房が生み出す微かな風に前髪を揺らされながら、周りの様子なんて気にすることもなく、凛とそこに在る。その様子が、なんだか昨日シャツ越しに見えた、刺青の青い花に似ていた。  俺は、彼女から目を離さず、静かに黒板の前を進んだ。席替えをしたらしく、なんだか教室内の雰囲気が違っていた。教卓の上に置いてある、教師用の生徒の名前が書かれた座席表で、夏樹君の席の場所を確認した。彼の席は窓際で、丁度、彼女の斜め前だった。  昨日、彼女が置いて行った傘を、その場でぎゅっと握りしめた。何の模様もない、シンプルなビニール傘。今から、これを彼女に渡す。  途端に、今まで無視していた心臓の音が、煩く体の中で響きだした。  当然だ。俺は本来、ここにいて良い人間じゃない。それに、殴られ屋以外で自分から、人に話しかけるなんて、久しぶりで。  静かに教卓から離れて、規則正しく机が並んだ教室内を、彼女めがけてまっすぐ歩く。彼女の机の目の前で、立ち止まった。 「おはよう、間宮涼花さん」  初めて、彼女の名前を、彼女に向かって呼んでみる。  唇が震えて舌を噛み切ってしまいそうなのを、無理やり、笑顔に変えた。  今ここにいるのは、俺じゃない。  名前を、貰ってるんだ。図々しい彼の名前を。  本を読んでいた彼女が、やっと顔を上げる。「おはよ……」と、挨拶を返しかけていた彼女は、俺の顔を見るなり、ぴたっと動きを止めた。 「……えっ」  目が合って数秒後、彼女は小さな驚きの声を発した。俺は、もう一度、微笑みを作り直し、 「はい、忘れ物」  と、ビニール傘を差しだした。  椅子に座ったまま、彼女は、傘を差しだす俺の腕あたりを眺めて何も返事をしない。俺は、傘を彼女の机の上に置いて、少しかがんでその表情を覗き込んだ。もう一度目が合った彼女の顔には、困惑が薄く佇んでいて、朝の光を反射しながら瞳がゆらゆら揺れている。  彼女は、さっと、長袖シャツを着た左腕を机の下に引っ込めた。開いていた文庫本が、彼女の手の重みを失ってパラパラと閉じてゆく。  もしかしたら怖がらせてしまっているのかもしれない。 「どうしたの?」  俺は、素直に訊いてみた。すると、 「なんで、ここにいるの……」  小さな声で、彼女は疑問を呟く。俺はまた精一杯笑ってみせて、 「だって、ここ、俺の教室だもん」  そう、宣言した。    頭の中に、引き受けた役の名前を思い浮かべた。  すっと息を吸い込み、早くなっている心音を悟られないような表情を作って。  名前を、名乗る。彼の、本当の名前を。 「坂口奏悟(さかぐちそうご)です。暫く休んでたから、忘れちゃった?」
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