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俺は、どうやら死ねない身体らしい。
細胞の再生が早いのだ。どれだけ傷つけられても、すぐにその傷は塞がって治ってしまう。
それに、俺の細胞は老いることもないらしく。元号が変わるのを三回は見たが、俺はずっと十代後半くらいの見た目のままでいる。なぜこうなったかは……思い出さない。
今まで何度も、自分で死のうとした。
でも、死にたくなるほどの痛みに襲われても、本当に死んでしまえることなんてなかった。
どうせ死ねないと解っていて、自分で自分を傷付けるのは虚しい。
だから、殴られ屋を始めた。
いろんな人に、殴られて蹴られて傷つけられていると、いつか本当に運良く死ねる日が来るんじゃないか、そう、期待して。
でも、なかなか思い通りにはならないもんだ。
「○○くん、痛い?」
誰もいない夜の公園、ベンチに座っている今日の客が、気持ち悪い笑みを浮かべて問う。その人に向かい合うように、ベンチじゃなくて地べたに正座している俺は、顔を上げた。
痛いに決まってる。
俺は、自分で、自分の腕に、客から渡された果物ナイフを突き立てていた。一本の歪な線が、皮膚を切り裂いて、つー、と血が流れる。傷口に、冷たい風が触れて、思わずぎゅっと眉をひそめた。一月。年が明けて、一週間も経っていない今日。突き刺すような冷えた気温が、痛みを倍増させている気がする。
「痛い、です」
小さな声で素直に感想を述べる。目の前に座る、黒いスーツの上にシンプルな灰色のコートを着た男は、口元に浮かべた醜い笑みをさらに深めた。年齢は確か四十一歳だと言っていた。顔も体型も平均くらいで、何処にでもいるようなサラリーマンって感じ。何でこんな奴が俺を買うのか、と思ったけど、傷口を眺める、黒い墨を塗りつぶしたような目から、なんとなく「やばい人なのかもしれない」と思い始めていた。いや、俺を買う人間にまともな人なんてきっといないんだけど。
「ふふ……、痛いかぁ……。そうか、そうだよなぁ……」
独り言のように呟き、男は数秒、眉をひそめて、ふふふ、と笑った。口元から、白い息が漏れてゆらゆら立ち消える。そして、男は、ぽんぽん、と、まるで小さな子供をあやすような手つきで、俺の頭を撫でて、
「でも、まだ頑張れるよね?」
そう言い放った。
男の両目を黙って見つめてみる。熱を帯びたような目の中に、濁った欲望が見える。
――ああ、今日の客はハズレだ。
俺は心の奥で、そう思った。
殴られ屋として、今までいろんなお客さんに会ってきた。
まず、純粋に殴るだけで終わる客はほぼいない。殴って首を絞める、顔を踏みつける。バットなどの凶器で殴打する。そして、今日の客みたいに、そもそも殴らないやつもいる。
俺は、基本的に何をされても抵抗しない。お客様からの要望で、たまに嫌がってみたり泣いてみたりするけど。でも、そういうことを望む客は、俺の願いは叶えてくれない。ハズレ。
俺が泣いたり怖がったりして喜ぶような人間は、俺を半殺しにもしない。
だって、彼らの目的は暴力をふるうことそのものじゃなくて、俺のリアクションだから。好き勝手出来る、都合が良くて活きも良い、“お人形さん”を望んでいるだけ。
こんな傷じゃ、死ねない。
客に言われるまま、自分で付けた切り傷をじっと眺める。
今までだって何度も、自分で試してきた。そして、ずっと失敗してきた。
じわじわ、傷口が塞がる感覚がする。俺は死にたくて殴られ屋をしているけど、そのことはもちろん、自分のこの特殊な体質についても客に話してはいない。夜の薄暗いさびれた公園では、血まみれの傷口がどうなってるかなんてよく見えないだろうけど。それでも、気付かれてしまうのはまずい。
内心焦っていると、突然、男は前かがみになってこちらに上半身を近付けた。手を伸ばし、ナイフを握る俺の手を上から包む。そして、力を入れて、刃先をぐっと深く腕の中に押し込んだ。
「――あ゛!」
反射的に、喉の奥から押しつぶしたような汚い声が出た。ぐちぐちと、治りかけていた肉や血管が、再び切れる感覚がする。男はそのまま、ぐりぐりと皮膚を抉るように冷たい刃を動かした。
「あぁっ……! っ! ぅああ……っ」
口の端から不格好な声が漏れ出る。痛みの中で切れ切れに短く呼吸をすると、吐き出した白い息が、夜の中に冷えて溶けた。目元が潤んで、濡れた睫毛が凍っていく。
傷口が焼けてるみたいに熱い。生暖かい血液がどろどろ溢れ落ちて、自分のズボンの太ももに赤黒い染みを作っていた。
「…………かわいいねえ」
男がニヤニヤ笑っている。
この状況で、そんな感想を口にする、目の前の人間が信じられなかった。
今日の客は、ハズレだ。
でも、ハズレの客は、殺してくれない代わりにお金をたくさんくれる。お金は大事。いくら死なないからと言って、普通にお腹もすくし、死ぬまで生きていくにはお金がかかる。
心の中で、パチッ、と気持ちが切り替わる音がする。俺は今、“活きの良いお人形”――。
「頑張ったね、偉かったね」
数十分後。どうせすぐ治ってしまう傷口に、ぐるぐると包帯を巻きながら男は言う。この男は、自分で傷つけたものを自分で手当てしたいらしく、気が済むまでナイフで切り裂いた後、突然、ビジネスバッグから包帯や消毒液を取り出したのだ。
最初は、気味が悪いと思った。
でも、ナイフを握っていたときとは違う、包帯を巻く柔らかい優しい手つきに、心の中に奇妙な気持ちが誘発されてしまった。
「あの、……」
「ん?」
「……もう、終わりですか?」
思わず問いかけた。頬に残る、涙が伝った跡が、外気に冷やされてパリパリと突っ張っている。男は包帯を巻きながら、目も合わせずに、
「終わりだよ。これ以上すると、○○くんの身体に良くないからね」
と、返事した。
……何が、身体に良くない、だ。客の言葉によって、腹の中に、余計な感情が溜まった。
俺を買っておいて。中途半端で、余計な優しさだ。この男は、俺が死ねないことを知らない。この男にとって、俺は、何か間違えると死んでしまうかもしれない生身の人間なのに、刃物を向けていたのだ。
「血、制服にたくさん付いちゃったね」
血液が流れ落ちて染みついたズボンあたりに焦点を合わせて、男は言う。
「明日も学校でしょ? 先生やお友達にはなんて説明するの?」
馬鹿にするような、見下すような、責めるような。でも甘ったれた声色。俺は敢えて答えない。それが、今、この相手にとっては正解だと思ったから。制服を着て来いと指定したのはこの男だし。それに、俺にとってはこの服が汚れても何も困らない。
俺は、偶にお客さんにお願いされると、この“制服”を着る。今は一月だから、もちろん冬服だ。チェックの柄が入った灰色のズボンと白いシャツ、紺のブレザー、ネクタイも巻いている。この街には、男子高校生をいじめてみたい大人が沢山いるようで、今日みたいな恰好をしていることはめずらしくない。と言っても、俺は本物の高校生ではないんだけど。この制服も、以前お客さんから、「弟の高校時代の制服なんだけど、君に似合うと思って……」と着せられたものをそのまま使っているだけである。
俺は、何も言わない代わりに、きゅっと唇を結んで、困ったような瞳で客を見つめた。こうすると、目の前の相手は勝手に俺の表情を解釈してくれる。男は、やれやれ、とでも言うような、優越感にどろどろに浸った笑みをこちらに向けてきた。
「手当、終わったよ。今日はもう、安静にしててね」
やがて、包帯を巻いた手をふわりと握りながら、男は微笑んだ。皺の深い、温かい手のひら。信じられない優しさを向けられて、また苛立ってしまった。だけど俺には、暴力も、この見かけの優しさも、拒絶することができない。
「……ありがとうございます」
媚びるような顔で、思ってもない言葉を呟く。お客さんは満足そうに頷いた。
男と別れて、一人で家に帰る。
「ただいま……」
小さな、古いアパートの二階、一番端っこの部屋。鍵を開けて中に入ると、真っ暗で何の音もしない、ごちゃごちゃ散らかった空間が出迎えた。
八畳のワンルーム。この部屋は、本当なら俺の家じゃない。俺はこの百年ちょっとの人生の中で、度々人に拾われては捨てられてを繰り返してきたが、今回もそのパターン。ここは、元々俺のお客さんだった女の人(俺は、“みきちゃん”と呼ばされていた)が借りた部屋で、一か月前まで一緒に住んでいた。と言っても、一緒にいたのは二か月ほど。ホテルやネットカフェを転々としている、という話をうっかりしてしまったために、「じゃあ私の家に来て」と半ば強制的に連れてこられた。しかし、俺をここに連れてきた当の本人はもうずっとこの部屋に帰らないし、連絡もつかない。
荷物も置きっぱなしだし、いずれ戻って来るのだろうと思っていたけど。また捨てられる日も遠くないかもしれない。
靴を脱いで狭い室内に足を踏み入れる。ぼさっとリュックサックを床に投げた。少しだけ開いていたチャックの隙間から、さっきの男から貰ったお金が入った封筒が見える。予想したとおり、今日の客は約束していた以上の報酬をくれた。
足の踏み場もないような床を、つま先立ちで部屋の奥へ進む。俺の荷物は部屋の隅に置いているスーツケース一個分と、さっきのリュックサックくらいだけど、みきちゃんは持ち物が多い。沢山の物を買っては、飽きてその辺に放置。でも、本人曰く、どれも大切なモノらしい。
血が付いたズボンを着たまま、高さの低い小さなベッドに、一人でゴロンと横になった。首を絞めつけるネクタイを緩め、深く息を吐く。
枕から、まだ微かにみきちゃんのシャンプーの匂いがする。
暗い天井に左手をのばすと、血の滲んだ白い包帯が目に入った。右手で結び目を引っ張る。するするっと、包帯は解けて、布団の上に落下した。現れた左腕に、もう傷は無い。
俺は、そのまま目を瞑る。じわじわと、身体のあちらこちらから疲労を感じた。死ねないくせに、やけに人間的な身体だ。数分もしないうちに、意識が泥のように闇に引きずり込まれていた。
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