過去/冬から梅雨

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 翌日。  ぴんぽーん、という、無機質な呼び出し音で目が覚めた。  部屋の壁にかかった、ピンクの丸い時計を見つめ、時刻を確認すると、まだ朝七時二十一分。多分、今、俺の顔は中心に皺を寄せたようなかっこ悪い感じになっている。のそのそ起き上がって玄関へ向かった。  こんな朝っぱらから、誰だろう。そもそも、日中でもこの家を訪ねてくる人なんて、いないのに。みきちゃんがいたときも、友達の一人も彼女に会いに来たことは無かった。たまに配達員が、みきちゃんが通販で買った荷物を持ってくるだけ。  本物の家主が不在の今、対応できるのは俺しかいない。居留守を使っても良かったんだろうけど、なんとなく、玄関ドアを開けてしまった。  扉の外から細く舞い込んだ冷たい空気が、前髪を揺らして肌を突き刺す。  肩をすぼめながら見ると、そこにいたのは、俺と同じ制服を着た少年だった。  一瞬、ぎょっとした。  だって、俺の制服は、以前お客さんに渡されたやつで、俺にとっては単なるコスプレのようなものだ。最近まで、この制服がどこの学校のものか知らなかったくらいだし。でも、目の前の少年の制服は、多分、というか十中八九、彼自身のものだ。ズボンもブレザーも、その下のシャツも、主人の身体に馴染むように皺が寄っていて、でもちゃんと綺麗に手入れされている。制服の他に、彼はあったかそうな黒と紺のチェックのマフラーを巻いていて、冷たい風に混じって柔軟剤やシャンプーの甘い匂いが鼻先に届いた。  平凡な、十代の男の子に見えた。でも、顔の情報はほとんどなかった。白いマスクを着けてるし、長めの黒い前髪が、おでこも眉毛もしっかり覆い隠していて、その隙間から見える両目だけが、俺に知ることができる彼の顔だった。  彼も、ドアを開けた俺の姿を見て、一瞬、はっと目を丸くした。しかし、時が止まったかのように揺らめいたその黒い瞳は、次の瞬間には伏せられてしまって下を向いた。  この少年は誰で、今のはどういう感情の目だ……?  俺は身を硬くしたまま、少年の姿をじっと見つめた。  もしかして、この子は部屋を間違えているのかもしれない。勝手にそう納得して、俺は何も言わずに扉を閉めて逃げようとした。しかし、ドアの隙間に、ローファーを履いた少年の左足がガッと突っ込まれ、阻止されてしまった。 「……君、誰?」 「副島美紀(そえじまみき)の、彼氏ですか?」  やっと口を開いた俺の言葉とほぼ同じタイミングで、聞こえてきたのは想定外の言葉。若干敵意を漏らしそうになっていた俺は、思わず、口を半開きにして、首を傾げてしまった。  副島美紀は、みきちゃんの名前だ。でも、俺はみきちゃんの彼氏じゃない、と、思う……。居候、よりかはもっとお互い都合がいいような……。言いよどんでいると、少し俯いていた少年が、瞳だけ上目使いにこちらを見上げる。黒い瞳の奥に、射貫くような光が見えた。 「僕は、副島美紀の息子です。ここ、副島美紀の家ですよね」  彼は、さっきよりはっきりした口調で、そう、言った。 「…………え?」  みきちゃんの、息子……? みきちゃん、子供いたの!?  頭が爆発するかと思った。あまりのことに声が出ない。でも、少年は俺のリアクションなんて心底どうでもいいらしく、ざらつきのある中世的な声で、 「副島は、いますか」  と、短く言葉を続けた。 「みきちゃ……、美紀さんなら、今はいません」  動揺しながらも、なんとか返事をする。少年はさらにマスクの下の口を動かし、 「では、いつ帰ってきますか」 「わからない、です……」 「副島はいつから不在ですか」 「……一か月くらい前」 「どこに行ってるかわかりますか?」 「いやぁ~……」  全部、歯切れの悪い言葉になってしまう。俺からは何の情報も引き出せない。そう悟ったのか、少年は再び目を伏せた。そう言えば、俺はみきちゃんに関して何も知らない。愚痴やちょっとした自慢話は聞いてたけど、みきちゃんは過去について話すことはなかったし、別に知ろうともしなかった。興味が、なかった。 「……ズボンに血が付いてますよ」  暫く黙っていた彼が、鋭い声でそう言った。言われて初めて、昨日手首を切って血が付いたままだったことを思い出す。咄嗟に、手で血痕を覆い隠すが、少年は、訝し気な目元で俺の姿を見つめた。 「……僕と同じ制服を着てますね。先輩ですか? なんで高校生が母の家にいるんですか」  澄んでいるのに、凄みのある、声。俺が普段あまり聞くことのない種類の声だ。めんどくさいことになってきた。 「いや、俺は、高校生じゃなくて、この制服は、…………」  弁明しようとするが、何を言っても多分嘘くさい。そのとき、突然、言葉に詰まる俺を押しのけて、少年が玄関に足を踏み入れた。俺とほぼ背丈も変わらないのに、案外力が強い。制止しようと腕を広げたけど、彼はローファーを脱ぎ散らかし、部屋にずかずか入ってゆく。  ワンルームのこの部屋は、玄関から一歩入ればもう生活のある空間だ。キッチンもベッドもテレビもローテーブルも、ごちゃごちゃ雑に物を置いた棚も、床に散らかりっぱなしの雑誌や服やぬいぐるみも、全部数秒で見渡せる。 「……本当に副島はいないみたいですね」  数分、部屋中をガサガサ捜索して、気が済んだのか、やがて彼は呟いた。その姿は、部屋に入ってきたときのような勇んだ様子ではなく、どこか残念がっているようにも見える。 「……副島と、連絡を取ることはできますか」  床に乱雑に積み上げられた女物の服を見つめて、彼は訊ねた。 「……ここを出て行ってから、連絡がついていません」  俺の答えに、彼はまた少し悲しいような目をした。 「母……、副島は、父と結婚して僕を生んだ後、僕が五歳になる月に出て行きました」  やがて、少年は、マスクをもごもご動かしながら小さな声で語り出した。みきちゃんの痕跡が残る部屋の中、立ち尽くしたまま。座るように言った方が良いのかわからず、でも、座れるようなスペースも無いしなぁ、と、俺もなんとなく彼から少し離れた部屋の隅に立っていた。 「ずっと会ってないし記憶もあまりないですけど。でも、どうしても会ってみたくなって。色々調べて探し回って、やっと、居場所を掴んだのに」  俯いて、手のひらをぐっと握っている。それだけ、自分の母親に会いたかったのだろう。でも何故か、その声からは、恨みのような、悔しさのような感情がにじみ出ている気がした。純粋に母に恋焦がれる子供の姿とは、少し違う雰囲気。 「……ところで、あなたと、副島はどんな関係ですか?」  ああ、やっぱりそれを聞くか。少年の質問に、俺は思わず口元を歪めた。なんと言えばいいのだろう。うーん、と首をひねって、 「簡単に言えば、居候、兼、都合のいいストレス発散道具……?」  いや、それもなんか違うな、と、言いながらさらに考える。はっきりしない俺の返事に、彼は、 「は……?」  と、長い前髪をさらりと揺らして首を傾げ、疑わしい目元をした。適切な言葉が浮かばずに、どうしようもなくなる。とりあえず、 「俺、殴られ屋してるんです」  と、伝えた。  俺の言葉を聞いた彼は、表情を曇らせた。と言っても、微かにその瞳が揺れただけで、マスクの下の顔がどうなっているかはわからないけど。  その目は、“殴られ屋”という言葉に対しての嫌悪感だろうか。俺には俺の理由があって殴られ屋をしているのだし、何も知らない普通の人間には多分理解できないと思う。それに、俺が勝手に殴られているだけで人に迷惑をかけた覚えはないし、そんな顔をされる筋合いはない。俺は、質問に答えただけ。  目の前の人間に対する、毒みたいな感情が心に出現するのを感じた。彼は、次に何を俺に訊くんだろう。じっと見つめていると、 「副島は、あなたを殴ってたんですか……?」  控えめな声で、思っていたのとは違う質問が投げかけられた。顔の奥に、愛想笑いを用意していた俺は、少し拍子抜けした。 「うん……。でも、お客さんとして会ったのは一回だけで、そのときは顔をひっぱたかれたくらい……かな。その後はただお喋りして……。話の流れで、俺が家が無いって言ったら、ここに、連れてこられ、ました」  そうだ。彼に質問されて思い出した。みきちゃんは最初、他の客みたいな酷い殴り方はしなかったのだ。女性だから、というのもあるかもしれないけど。でも、女の人でも怖いことをする客はよくいる。 「殴られたのは、その一回だけですか?」 「いや、機嫌が悪い時とかにも、殴られてた」  みきちゃんは俺に、住ませてやってるんだから、と、呪いのような言い訳を口にしながら、度々暴力を振っていた。まあでも、彼女が殴るときはいつも素手だったので、酷くても鼻血が出る程度で済んでいたし、俺にとっては何ともない。みきちゃんは俺を殴った後、決まって数時間、一人で外出するので、彼女が戻ってくる頃には血は止まっている。  ……そう言えば。 「美紀さんと最後に会った日も、殴られた。殴った後、またすぐ外に出ちゃったから、いつものことだと思ってたんだけど、帰ってこなくなって……」  思い出して、そう言った。 「捨てられたんですね、あなた」  無機質な口調で少年が放ったその言葉に、思わず彼の顔を見る。でも、マスクと帽子で隠れた表情からは、特にわかりやすい感情は読み取れなかった。  結局、それ以上特に会話することもなく、息子くんは帰って行った。帰り際、「副島が戻ってきたら連絡をください」と、電話番号が書かれた紙を貰ったが、果たしてこの電話にかける日は来るのだろうか。去っていく制服の後ろ姿をしばらく見つめると、俺は玄関のドアを閉じた。
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