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夏
「あっ、この文章……」
既視感のある一文に、思わず、胸の奥がドクンと鳴る。数か月前、受け取った手紙の中に書いてあった言葉と同じ一文を見つけ、俺の心や体や、色々な機能が一瞬にして過去の感情に引っ張られる。人の家のベッドに堂々と寝っ転がり、うつ伏せで頬杖をつくような感じで家主の本棚から引き抜いた小説を読んでいた俺は、そのページを開いたまま、暫く固まっていた。
“もう、ふたたびお目にかかりません。”
太宰治の小説、『女生徒』のラスト一行。彼は、こんなところから、引用していたのか。あんな大事な手紙に、いや、彼の今後一切を任せてしまう、白紙委任状みたいなものなのに、小説の一文を抜き出して使っちゃうとか。人の身体は食べたもので作られるけど、心は、それまでに受け取った言葉で出来上がるものだと、以前どこかで聞いた。きっと彼は、一人で小説を読んだりする時間が長かったのだろう。
「おーい、そろそろ宿題始めなよ」
唐突に聞こえた声が、固まっていた俺の思考を現在まで連れ戻す。ようやく本から顔を上げて声の方を見ると、すぐ横に、ベッドの端に手をついて床に膝立ちした涼花ちゃんが、ちょっと呆れたような表情で俺を見ている。
彼女は、今俺が占領しているベッドと小説の持ち主、つまりこの部屋の主。夏休み真っ最中の今日、高校から大量に課された宿題を一緒に片づけようということで、彼女の家に集まっているんだけど。俺は、本棚の中の小説ばかり読んで全く宿題をしていない。普段本なんて読まないけど、読み始めると案外はまってしまって。それに、ここにある本たちは、涼花ちゃんに選ばれたものたちだ。彼女を形成する言葉に触れたかった。
「せっかく勉強会開いたのに、君、一ミリも宿題に手を付けないじゃん」
眉をひそめて、少し頬を膨らましたような顔で涼花ちゃんは言う。そう言えば、彼女はずっと俺の名前を呼ばなかったな。いつも、「君」。そこにどんな意図があるかはわからないけど、なんだか、名前を通り越して俺そのものに話しかけられてるみたいで。だからついつい、存在が不確かな自分が、しっかり形をもって、彼女を求めてしまった。
小説をベッドに置き去りにして、身体を起こす。ベッドに浅く腰かけた状態になって、俺は、そのままの勢いで腕をのばして、彼女に抱き着いた。膝立ちしていた彼女の身体が少しよろける。
彼女と過ごすうちに、俺の心にも言葉が増えてしまった。まともに人と関わってこなかったうえに、いろんな感情に名前も付けないまま蓋をしていたから、日に日に膨らむ言葉と気持ちに、俺は度々パンクしそうになる。でも、重くのしかかる心を、口に出すと良くない気がした。彼女の人生を、俺みたいなやつが縛り付けちゃいけない。俺はどう頑張っても、彼女と同じようには生きられない。
でもやっぱり、身体の内側で想いが充満してしまった。あと、小説のあの一文を読んで、色々思い出してしまって。
ふわっと、彼女の髪の匂いが香る。腕の中で、さっきまで小言を吐いていた彼女は、じっと静かになっている。突然、ハグしちゃったから、びっくりしたんだろう。ごめんね。
半袖のシャツを着ている、彼女の柔らかい肩や背中が、熱い。心に灯った炎が、彼女に燃え広がらないうちに、俺は身体を離した。
「もう一冊、読んだら勉強しようかな~」
何事も無かったように、お道化るように、逃げるように。ふざけた口調で言いながら、立ち上がって、本棚の前に行く。
「さっきもそんなこと言って結局勉強してないじゃん」
背後から、呆れと、でも半分笑いを含んだ柔らかい声がした。
そんなんじゃ夏休み終わるまでに宿題完成できないよ、と、忠告してくれる優しい彼女を、本棚の前で振り返って笑いながら見つめる。この夏の終わりを、頭の片隅で予想しながら。
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