一話

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一話

燻り狂えるバンダースナッチに近寄るべからず 『鏡の国のアリス』/ルイス・キャロル この世界には人間に擬態した怪物が存在する。 連中は人に紛れて暮らしており、本性をさらけだすその瞬間まで怪物だとまずわからない。 間宮春人(まみやはると)が怪物に魅入られたのは、そぼ降る雨が歓楽街のネオンを煙らせる秋の夜だった。 場所は新宿二丁目の雑居ビル、半地下のバー。 階段を下りた先の扉を開ければ軽快にベルが鳴り、コの字型に仕切られたカウンターとテーブル席が出迎える。 「あら春人ちゃん、久しぶり」 オネエ言葉のマスターがむさ苦しい髭面に微笑を浮かべる。 「仕事は順調?こっちには慣れた?上京して半年でしょ、ご家族に連絡入れたの」 矢継ぎ早に投げかけられた質問に苦笑し、右端のスツールに滑り込むのは細身の青年。擦り切れたジーパンと色落ちしたプリントTシャツをカジュアルに着崩し、両耳にシルバーのピアスを嵌めている。垢抜けた風貌に人懐こさを足す、無邪気な笑顔が魅力的だ。 マスターの挨拶代わりの軽口に青年……間宮春人は、お絞りで手を拭いて肩を竦める。 「おかんが分裂したみたい」 ここは春人の行き付けのバー。 ムーディーに照明を絞った店内にはワンナイトラブの相手を見繕いにきた男たちが散らばっていた。隅で互いの腰を抱き、乳繰り合っているカップルもいる。 マスターが頬杖付いた春人の前に、ストローを添えたカクテルをさしだす。 「ノンアルコールよ。未成年だもんね」 「カゴメ野菜ジュースみたいに綺麗なオレンジ」 「もうちょい言い方あるでしょ」 「なんて名前?」 「プッシーフット。可愛くない?」 「女性器(プッシー)のあんよ?きも、キラーコンドームみたい」 「なんでそっちは知ってんのよ。プッシーは雌猫って意味、女性器は俗語」 「ほなプッシーフットは肉球?」 「猫のようにこっそり歩くって意味らしいわ」 「売り専のネコと猫ひっかけたダジャレかい、しょーもな」 機嫌を直しグラスを掴む。 「お味のご感想は?」 「オレンジジュースをレモンジュースで割った味がする」 「そりゃそうよ主成分だもん」 「なんや損した」 プッシーフットをちびちびなめる青年を微笑ましげに眺め、マスターが思い出したように呟く。 「多田さんが捜してたわよ」 「げっ」 「何、喧嘩?」 春人は「んー」と言い淀み、ストローでグラスの中身をかきまぜる。 続いて一口嚥下し、呟く。 「……あの人奥さんおんねん」 「げっ!」 今度はマスターが顔をしかめる番だった。 多田と破局に至った経緯を回想、カウンターに突っ伏し嘆く。 「あ~も~最悪や、どうして俺ってこー男運ないんかな?そんなとこまでおかんに似なくてええんのに」 「野暮は言いたかないけど浮気は感心しないわね」 「ゲイの偽装婚の是非はとやかく言わへんよ?せやけど後出しはナシやろ、こっちは結構本気やったのに。しかも子どもまでおるとかありえへん」 「男の子?女の子?」 「一男一女。上の娘が小五で下の息子が幼稚園、スマホに写真あった、全部で百二枚」 「数えたの?ちょっと引いた」 「傷口に塩すりこまんといて」 「男なら他にいくらでもいるじゃない、早いとこ吹っ切っちゃいなさいよ」 「向こうから絡んでくるんやて」 春人は頭をかきむしり、元恋人への不満をぶちまける。 「しかもめっちゃ往生際悪いねん。もういちど話し合おうとかやり直そうとかLINEうるそうてかなわんからブロックしたったわ、ざまーみさらせ」 「春人ちゃん既婚者はセフレにしない主義だもんね」 「おかんが妻子持ちに捨てられてえらい苦労したさかい」 「フツーにモテるんだから年が近い子選んだら?」 「年上が好っきやねん。内側から滲み出る父性とか包容力に惹かれんねん」 「加齢臭フェチ?ファブリーズしたら目が覚めるわよきっと」 週末のバーに控えめな嬌声と囁きが充ち渡る。 同じグラスに注がれたカクテルをハート型ストローで飲むペアをチラ見し、カウンターに滴る雫で「の」の字を書く。 「はあ……どっかにええ男おらんかなあ」 春人が生まれ育ったのは関西の田舎だ。遊び場といえば国道沿いのイオンモールしかない、そんな場所。 元OLの母は上司と不倫し身ごもった。 その後一人で春人を産みパートを掛け持ちしながら育ててくれた踏ん張りには感謝しているものの、保守的な田舎の人々が未婚の母と子に向ける目は冷たく、物心付いた頃から疎外感と劣等感に苛まれてきた。 高校を卒業した夜にカミングアウトし、壮絶な親子喧嘩を経て家を飛び出したのが半年前。 上京費用と入居費用にはバイトで貯めた金を充てた。保証人がいない為借りられたのは築三十七年、六畳のボロアパートだったが、寝に帰るだけなので不便はしてない。 現在は東京でパパ活しながら気ままに暮らしている。売春には全く抵抗を感じない。 初めて体を売ったのは中二の春、相手はイオンモールで声をかけてきた変態。男子トイレの個室に引っ込み、オーラルセックスと引き換えに三万円をゲットした。 以来味をしめ、金欠に陥るたびネットの掲示板でパパを募り小遣いをもらってきた。 春人は生来男好きセックス好き、こと性技に関しては向上心旺盛な勉強家ときている。加えてパパ活の実入りは田舎と比べ段違い、時給換算のコンビニで働くのがアホくさくなるほどだ。 東京は天国。 二丁目こそ春人の居場所。 若くて顔立ちが整い、セックス上手な春人は需要が見込める。 東京駅に降り立った足で美容室に行き、髪を脱色しピアスを開けたのは身も心も生まれ変わりたかったから。 ここなら性癖を偽らずとも生きていける、ゲイバレを気にせず好き勝手にやれる。 息子がイオンモールのフードコートで知らない男とお茶したというだけで、真面目に働いてる母まで白い目で見られずにすむ。 しかしプライベートの方は順調とはいかない。春人が惚れるのは総じてろくでもない男ばかり。 付き合い始めてしばらくすると他の男や女と浮気し、あるいは日常的に手を上げ、やれパチスロだの競馬だの稼ぎをむしり取っていく。 直近の恋人に至ってはこの人なら大丈夫だろうと心を許した矢先に既婚者と発覚、いくら春人が突っぱねても執拗に食い下がりストーカー一歩手前まで拗らせる始末。 先日は「春人が欲しくてこんなになっちゃった」とファンシーなリボンを結んだペニスの画像を送り付けられ、心底うんざりした。 「てか娘のコレクションくすねたんかい、最低のパパとパパ棒やな」 「一人?一緒に飲まない?」 「パス。三十以上やないと萌えへんねん」 「は?老け専かよ、きも」 「るっさい死ね」 その後も春人を口説く男は絶えなかったが、ことごとく玉砕する。 ただ一人を除いて。 「隣いい?」 凪いだ声に目を上げれば、甘いマスクの男が爽やかに微笑んでいた。続けざまにベルが鳴り新たな客が訪れ、マスターがもてなす。 「いらっしゃい」 頭のてっぺんから爪先まで値踏みし、カクテルを一口飲んで「どうぞ」と促す。 男が「どうも」と会釈して隣に掛ける。洗練された物腰に好印象を抱く。年相応に清潔感ある身なりと無個性に整った顔立ちにも惹かれた。 年の頃は三十代前半、守備範囲ド真ん中に剛速球が投げ込まれる。
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