乙女の欲情

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「――で、選んだ男が俺だったと?」  花屋の息子の彼、桐谷菊一(きりたにきくいち)は、私が献上したビールのプラグを開けていた。 皆さま、お持ち帰りまでは成功致しました!!! 誰にともなく私は歓声に応えて、内心で手を振っていた。 まるで初当選を果たした議員のようだ。 赤ダルマに目を描きたい気分だった。 ありがとう、ありがとうっ!!! 心の中で小さくガッツポーズ。 けれど、落ち着け私。 ドキドキドキドキ、心は高鳴っている。 「私、恋愛に関してまったくの初心者です。だめかな?」 「この時点でダメって言う男って、いると思うの?」 そうですよね。 あなた、自らの意志で私に付いて来たんですから。 拉致された訳ではないですよね? 「念のためだよ。後で合意は無かったなんて訴えられたくないもの」 私は肩を竦めた。 「俺は意外だった。佐原さん、こんな簡単に男連れ込む女の子に見えないからさ」 ですよね。 「私も初めてのトライで、こんな簡単に成功するとは思ってもいなかったよ」 連れ帰らせてくれてありがとうと、私は畏まって頭を下げた。 「え、何?そんな真面目にならないでよ。こっちまで緊張してくるんだけど」 桐谷君までもが狼狽えながら、頭を下げた。 ん、やっぱり。 私は彼に何となく似た空気感を感じてしまう。 へへっと、少しばかり気を緩めた笑みを零してまった。 「私ね、自分の内面がかなりドライな方だから、人を見る目は確かだと思っているの」 私は彼がベストだって答えに辿り着いているから、彼に捧げても全く後悔はないのだけれど、彼の方はそうでも無いのかもしれない。 「ははっ、確かって……何を見てさ?」 「えっと、先ずは名前かな」 「はぁ?」 彼はガクッと肩を落とした。 「菊一、可愛いフレーズだよね。実家がお花屋さんだって聞いて、嬉しくなったもの」 益々彼は眉根を寄せた。 「それ、俺の要素が何処にあるの?」 「大いにあるよ。名前は人格形成の第一条件だよ」 親から貰った名前には『願いごと』が込められている。 彼にはきっと、花を好きになって貰いたかったのだろう。 しかも選んだ花はこの国の誇る菊だ。 「花を愛でられる人に悪い人はいないよ」 彼がテーブルに据え置かれていた花を見つめていたことを知っていた。 一見、クール男子かと思いきや、柔らかい目をする人だとポイントが急上昇したのだ。 「それは単に稼業なだけだろ?」 「それもだよ」 「へ?」 「俺んちは花屋だって、ちょっと誇らしげでしょう?」 だからと言って、彼は花屋を継ぐ気は無かったらしく、建築関係に進んでいた。 「そりゃあ……まぁ、育てて貰った恩義もあるわけだしね」 ほらね? そういうところだよと、私は目を細めた。 「他にもあるけど、全部聞いておきたい?」 私は彼の顔を覗き込んだ。 「いや、いい……。つぅか、やめて。なんか、めっちゃ照れて来る」 彼は真っ赤に火照った顔を反らして、額を押さえている。 こうも照れ屋だとは、新たに知った一面だった。 何ともこれは、実に弄りがいがあるじゃあないかと、思わず顔がにやけた。 お酒が入っている所為もあって、私は何だか妙に楽しくなってきた。 「差し支えなければ、『菊ちゃん』と、呼んでも良いですか?」 彼は目を瞬いて、首を横に振った。 「や、さ、佐原さんには桐谷の方でお願いします」 ちっ……。 私が内心で舌打ったことは、乙女の沽券に関わるから秘密だ。 けれど仕方がない。 今日の今日でいきなり名前呼びは無いのだろう。 「……」 でも、なんだか寂しい。 こうも他人行儀で、ちゃんと解禁なんてできるのか? ダイニングテーブルを隔てたこの席が、そもそも遠い関係に思われた。 だからと言って、こちらは『葵』にしてくださいと言うのは、何だか負けた気がする。 何故だろうか? 一拍考えて気付いた。 嗚呼、私は『菊ちゃん』と、呼びたいんだ……な。 なんだか早々にフラれた心地になってしまう。 いや、そもそも振ったフラれたの話ではないのだよ? だって、私は菊ちゃんのこと本気で好きになったわけじゃあないもの。 ズキン……っと、まるで桐に刺されたみたいに、心が(ひず)みを訴えた。 何だろうか、これ。凄く悲しい。 私、お酒が入るとまさかの泣き上戸だった??? 「さ、佐原さん、どうした?」 いつの間にか、挙動不審な私を菊ちゃんが覗き込んでいた。 心配するその顔に、益々何かが琴線に触れて来る。
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