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紳士の苦悩
俺――桐谷菊一には一筋縄ではいかない彼女がいる。
それがこの、佐原葵だった。
くつくつ、かちゃかちゃ、トントン
キッチンに立つ彼女はよほど手馴れているのだろう。
控えめな、それでいて軽やかな音色を奏でて、鼻歌さえも口遊んでいる。
「お待たせ、お待たせぇ。野菜の旨味たっぷりのポトフだよ」
花柄の可愛い鍋掴みを使いながら、葵は熱々の鍋を運んできた。
それに海老とアボカドのシーザーサラダが食卓に並ぶ。
互いに社会人、平素はなかなか時間が合わずに忙殺されてしまい、あれから数週間を経ての初デートは、「ご飯だけでも食べにうちへ来ませんか?」と、葵からの誘いで実現した。
ん、期待はしていないよ。
勿論、飯への期待ではない。
それは、あの夜のことだ――。
俺は、酒が入っていたせいもあって、少々箍が緩めだったのだ。
だってさ、そうでなくともあの夜はお持ち帰りされているわけだからね?
あなたのことを『好きだ』と言って、あなた好みの女の子が懐にいます。
あなたならどうしますか?
勿論、オオカミに変貌するでしょうよ。
「き、菊ちゃん、ご、ごめんね。そういうのは、結婚を前提にしたお付き合いになってからだと思うの」
男の欲情を煽られ、うっかりお触りが過ぎた俺は、更に先へ進もうとした手を捻り上げられていた。
「ギ、ギブ、ギブっ!こ、これ、完全にハマっているからっ」
「まだ完全じゃあないよ。肩外してないでしょ?」
いや、外されたら困るんですけど……。
言うや葵はあっさりと俺を解放してくれた。
「ごめん、加減はしたけど痛かったよね」
俺の腕を撫でさする手は優しくて、華奢な女の子そのものだった。
「あ、葵は武道かなんかを?」
少しばかりバツが悪そうに葵は頷いた。
「護身術を少しね。うち、父が警察官だからね。兄たちほどじゃあないけれど、私も昔からそういう訓練を受けてきたの」
これまたあっさりと、とんでもないことを口にする。
「凄いね……とてもそんな感じに見えない」
葵は小柄な方だし、体育会系女子にも見えない。
寧ろ男に尽くすタイプの甘い系女子だと俺は思っていたからだ。
「その……私、古風な考え方なのかもしれないけれど、プロポーズを受けた時でないと、あの……キスより先には進めません」
葵は申し訳なさそうに、それでいて哀しそうに目を伏せた。
「結婚かぁ。流石にそれはもっとお互いよく知ってからだよな」
流石に、今日の今日で決めて良い案件では無いだろう。
でも、確かに身体を交えることも、理性ではそれくらいハードルを上げている女の子の方が俄然好みだ。
「あ、あのっ、そういう期待までさせていたのなら、本当にごめんなさいっ」
俺に交際を申し込んできた時と同じように、葵は勢い良く頭を下げた。
ん、普通はするものだよ。
そういう意味で、葵には(理解のある)俺を選んで良かったよねと思った。
危なっかしいなぁなんて思うけれど、その辺のことももしかしたら葵は見計らっていたのかもしんない。
「ゴメン……怖かったよな」
驚くほど純情だった葵の性格を知りながら、うっかり理性を飛ばして、早まったことをしたと、猛省する。
「怖くなんて無いよ。菊ちゃんのことは怖くない。私だって、うっかり流されそうで困るくらいなんだよっ」
俺の袖を掴んで、葵は必死になって力説した。
「でも、もしもを頭の隅っこで考えたの……別れることになったら……って」
今にも泣きそうな暗い顔をして、葵は想像したことを口にした。
「生涯を誓えない相手と関係を深めたら、きっと私は後悔するよ。今、菊ちゃんを大好きになって、なったからこそ、きっと、泣くことになるなって簡単に想像できたの」
葵のその気持ちは俺には痛いほどよく分かった。
俺には結婚を想定していた彼女がいたのだ。
彼女とのことは、今でも不意に顔を覗かせる手痛い失恋だった。
「先に進むのは、互いが生涯を共にしたいと願う時にしませんか?」
それが葵の手を取る第一条件だった。
つまり、彼女を抱くにはプロポーズせねばならないということだ。
何だかおかしな話かもしれないけれど、それでがっかりなんて俺はしなかった。
そういうのも良いかもねなんて、思えたのだ。
「ん、葵も俺にプロポーズしたくなったら言ってよ」
俺たちは協定を結ぶように固く握手を交わしたのだった。
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