紳士の苦悩

2/2
前へ
/6ページ
次へ
だが、しかしだ。 紳士諸君なら分かるよね? 年頃の恋人同士が、誰に邪魔されることのない密室にて二人きり。 しかも時刻は仕事終わりの遅い時間帯。 期待はしていないけれど、欲情は勝手にしてしまうものだ。 もう考えるな、俺。 考えるとうっかり押し倒してしまうだろう? そうすると多分、俺は彼女から信頼を失うわけで、それは非常に不味い。 不味いと思うほどには俺は葵に惹かれている。 「あ、作ってから訊くのもなんだけど、菊ちゃんは好き嫌いないの?」 「ん、特に無いよ」 美味(うま)けりゃあ、何でもいける口。 だけど、不味いならば箸はなかなか進まないというごく普通の口だ。 で、そんな俺は、これまでポトフに美味しさを覚えた記憶は多分ない。 不味いとまでは言わないが、どうせ同じ食材を使うのなら、がっつりカレーが良かったと思うタイプ。 まぁ、せっかく作ってくれたのに文句は言うまい。 「それでは、オープン」 葵は愉し気な掛け声と共に鍋蓋を外した。 ほわんと湯気立つ中に俺はごくりと喉を鳴らした。 「うわぁ、すげぇ。美味そう」 「へへっ、葵流はがっつり肉食系ですよ」 チャーシュー自慢を謳ったラーメンなんかに乗るような、豚の角煮がゴロゴロ浮かんでいる。 「昨日から仕込んどいたから、お箸で切れるよ?」 トロトロジューシーな肉厚のそれを深皿に盛る葵は満面のドヤ顔だ。 俺が葵の誘いを受けたのは、仕事終わりを見計らった今日のこと。 昨夜の内から着々と準備してくれていたのだと知る。 いわゆるサプライズ。 「私史上、初デートだもの。気合い入れてみた」 はにかんで笑う葵が可愛すぎる。 ダメだ、押し倒したい度が加速する。  そしてこの後、ポトフ美味い説が俺の食歴に記されたことは言うまでもなく、料理上手な彼女に胃袋をがっつり掴まれ、俺たちの解禁日がちゃくちゃくと進みつつあることも此処に記しておく。 fin.
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加