あなたの笑顔

20/49
前へ
/273ページ
次へ
 彼の心にはずっと同じ女性がいる。とんでもない人に思いを寄せてしまったもんだ私も。  そこからまたしばらく沈黙が流れる。時々道案内をする私の声だけが響いていた。夜は深みを増し、自分の心に不安をともした。説明しがたい複雑な思いで全身が満ちる。私はただ黙って前だけを見つめていた。  しばらくして、ある異変に気が付いた。私が道案内をするたび、先生はほんの少しだけ頬を強張らせた。きっとほかの人には気づかないほどの小さな変化だが、先生と接する機会が多くなってきた私ならわかる。彼は何かに驚き、焦っている。  ちらりと隣を覗き込む。無言でハンドルを操作する先生は、やはりどこか表情が固い、と思う。 「先生?」 「なに」 「何かありましたか」 「何かって?」 「なんか、困ってるような顔にみえて」  ストレートに尋ねた。先生は口を閉ざし黙り込む。そこでちょうど、目の前の信号が赤に変化した。車はゆっくりと停車し、一度先生が小さく息を吐きだしたのが見えた。 「いや、別に大したことじゃないけど……家、どこ?」
/273ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1755人が本棚に入れています
本棚に追加