あなたの笑顔

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 驚きの目で先生を見上げている。そして名を呼ばれた先生は、ぐっと言葉を詰まらせていた。一度何かを言おうとして口を開けるが声が出ない。唇を震わせ、掠れた声を絞り出していた。 「何してる、こんなとこで」 『部屋に入れなくて……鍵を失くしたのかな』 「鍵?」 『家に帰ってきたの、でも入れないの。家の鍵がないの、それに誰か知らない人が中にいるような……早く帰ってゆっくり寝たいの』  困ったように呟く。 「家に帰りたかった?」 『うん、だって早く寝て、明日に備えなきゃ。でも動きたくても動けなくて、誰も声を掛けてくれなくて困ってたの。響も来てくれないかな、って待ってた』  晴子さんの言葉を聞き、私はああと空を仰いだ。彼女の置かれている状況を理解したのだ。  気づいていない。それか、忘れてしまっている。  自分がすでにこの世を去ってしまったこと――晴子さんの記憶からすっぽり抜け落ちている。  もしかしてあまりに辛い出来事が多すぎで、彼女の頭の中から排除されたのだろうか。自分を保つための忘却だったのかもしれない。
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