あなたの笑顔

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 かちゃん、と音が響いた。鍵が冷たい床に落ちた音だった。    瞬きをしたその一瞬の間に、晴子さんの姿は忽然と消えていた。立ちすくむ先生と、足元に鍵だけを残して。  いつも通りの景色だった。ついさっきまで感じていた温かな空気も何もない。ただ何十回も通った階段と廊下が、ひっそりと存在しているだけ。私はあたりを見渡したけれど、やはり晴子さんはもうどこにもいなかった。  ……消えた?   幸せそうな顔だった、でも最後に残した謝罪の言葉は一体何だったんだろうか。直前に過去を思い出したんだろうか、それとも深い意味はなかったのか。  迷った挙句、私は階段を上った。一歩も動けずにいる先生の隣りにそっと近づき、その顔を覗き込んだ。 「先生」  彼は俯いたまま苦しそうに目を閉じていた。その表情に、私は何も言えなくなる。足元に落ちたままの鍵を拾い、じっと見つめた。  このアパートの鍵、ずっと持ち続けていたんだ先生。形見とも言える大切なものなんだろう。  私はそれを彼に差し出した。 「晴子さん……幸せそうでしたね」  先生が目を開け、鼻を啜った。コロリと一粒だけ、美しく涙が零れる。
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