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リビングのハイビジョンテレビで朝のニュースを眺めながら並んで朝食を取っていた彼女が「あの……」と上目遣いに口を開く。
その仕草によく手入れされたセミロングの黒髪がさらりと銀縁の眼鏡に掛かった。
なにか要望や意見を伝えようとするときの癖なのだろう。そんな控えめな彼女の仕草と、そのくせ肩や鼻先が触れそうなほどの距離感と空気越しに伝わる体温を味わうたびに欲情を覚え生唾を飲み込むのだ。
「なんだい?」
そんなとき、僕もあくまで平静を装って微笑みを返す。
「今日からしばらく、自宅に戻ろうと思います」
「急だね。すぐに戻って来られるのかい?」
「それは、用事次第なので……ごめんなさい」
初めて彼女に会ったのはひと月ほど前、仕事帰りに立ち寄った行きつけのアイリッシュバーだった。
テーブル席で癖の強いお気に入りのスコッチを舐めながら買ったばかりの経済関係の新書をパラパラと捲って、鼻で笑うように溜息を吐く。毎月ごまんと出版されるこの手の本はどれだけ厳選したつもりでも当たり外れが大きい。
今日のやつは外れだったな……と自虐的な気持ちでそれでもページを捲っていると「あの……」と控えめな声が掛かった。
視線を向けると黒いセミロングの髪に銀縁眼鏡の美女が横に立って上目遣いに見ていた。袖裾の長いタートルネックのリブニットにマーメイドスカートの装いは素肌の露出を厭う貞淑さと同時に彼女のカタチを魅せつける淫靡さも同居している。
「どうしました?」
一見こんな場所には似つかわしくない、それでいてこの上なく馴染んだ空気に生唾を飲み込みながら角が立たないよう柔らかく返した。
「その本、どう思われます?」
見れば彼女もまた片手にロックグラス、もう片手に僕と同じ本を持っていた。なるほど、同好の志だと思われたらしい。
「筆者はなかなかの識者なのだろうけれども、書いてある内容は、そうだな……ああ、良かったらお席をどうぞ」
僕が言葉を選びながら席を勧めると、彼女は僕の向かいではなく右手側に腰を下ろした。ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「その博識を政治信条の補強に使っている」
彼女が僕の言葉を続けるように囁いた。
「ご明察。あなたもそう感じましたか」
同意の言葉を返すと彼女ははにかんだ笑みを浮かべてグラスの中身を舌でちろりと舐めた。
「理論の部分はどれも勉強になるのですが、それが今の時世に実践的かと言うと……嘘は書いていなくても大事なところを隠している、ですよね」
「そう、今これを主張するのはあまりにも見当外れだ。この筆者にそれがわからないはずがない。ということはつまり……」
筆者にはこの本を通じて攻撃したい勢力が存在している。というのが僕の見解だった。そして彼女の理解もそうだったのだろう。僕の言葉に我が意を得たりとばかりに頷く。
「今はSNSの発信を見ればどんな立場で誰を支持しているのかすぐに分かってしまいますものね」
「確かに。おっと、それじゃもしかして僕のこともご存知かな?」
一瞬きょとんとした彼女は目を細めて悪戯っぽく微笑む。
「いえ、あなたとは本当に偶然ですけれども。でも、調べて宜しいのかしら?」
「もちろん。ノーヒントで特定出来たらなにかプレゼントしますよ」
彼女の織りなす扇情的な仕草と好みの会話という沼にあっという間に沈んだ僕は、わずか十分ほどのスマホ操作であっさりと特定されてしまったプレゼントとして、要求されるままに連絡先を交換した。
彼女は僕と同じように若くして起業家だった旦那さんを亡くした未亡人だそうで、子どもも無く今は遺産の不労所得と少しばかりの仕事の収入で自由気ままに過ごしているらしい。
後日二度にわたって酒と会話を楽しんだ後、僕からタワーマンションにある部屋へと誘って一夜を共にした。
ベッドの中での彼女はバーで会話したときよりも遥かに情熱的で、ベッドの中でも彼女は饒舌だった。僕は夜明けを待たずたちまち彼女の虜になった。
翌日、一緒に住まないかと提案すると彼女はふたつ返事で承諾し、自分のカードで大きなキャリーケースとそれに入る範囲で生活用品の一式を買い揃えた。そしてこの買い物に限らず、彼女は僕から金銭を受け取ったり必要以上に奢られることは頑なに拒んできた。
思えば、僕が誘った時点で聡明な彼女は既にいずれここを引き払う前提でいたのかもしれない。
「そっか、しばらく寂しくなるな……」
会話も、情事も、どちらからともなく求め合う充実した日々だった。
食事や掃除は家にいる彼女に依存しがちだったけれども、その献身に感謝はすれど嫌味や小言を向けたことは一度たりともないはずだ。
彼女とは対等の付き合いを心がけていたつもりだったからこそ、突然の帰宅宣言に不安を煽られる。僕になにか至らないところがあったのだろうか。
「そんな顔をなさらないで」
彼女が僕の肩に頭を預けて囁いた。
「これでお別れじゃありませんから。少しのあいだ、離れるだけです」
「ほんとうに?」
「ええ、もちろん」
不安げに呟いた僕の内ももに指を這わせながら、彼女は耳にくちびるが触れる距離で答えを返す。
愛撫のような囁きに堪らなくなった僕は朝からまた狂おしいほどに彼女を求めてしまい、ぎりぎりの時間になって仕方なしに仕事へ出て行った。
その夜、部屋へ戻ると彼女の私物は見事なほどなにひとつ残っていなかった。
本当に戻ってくるのだろうか。彼女など実は最初からいなかったのではないだろうか。そんな不安が胸に押し寄せる。けれどもベッドシーツが、ソファが、洗ったはずのタオルが、残り香として確かにその実在を匂わせてくる。
けれども、それだけ。
ただそれだけが、陽炎のように消えてしまった彼女が存在していたという証明なのだった。
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