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 ピンポーン。  インターフォンが鳴り、佐和が出た。新しいものに疎い琉門の家のインターフォンには昔懐かしい受話器が付いている。 『担当編集の矢萩(やはぎ)です』  モニターには若いスーツ姿の男が映っていた。モニター越しでも黒髪をワックスで固めているのが分かる。彼が琉門の担当編集、矢萩(かい)だ。 「はーい、今開けます」  佐和は玄関に向かい、ドアを開けた。玄関先に立っていた櫂は洋菓子屋の紙袋を持っていた。駅前のチェーン店のシュークリームだ。琉門の大好物である。 「こんにちは、佐和さん」 「どうも」 「これ、いつものです」  櫂は紙袋を佐和に渡した。 「ありがとうございます。先生いますので、どうぞ」 「どうも。失礼します」  櫂は佐和の案内で琉門の家に上がった。普段はチャラチャラした雰囲気の櫂だが、玄関ではかっちりした革靴を綺麗に揃えた。  佐和は櫂をリビングまで案内した。テレビの正面に置かれたソファには琉門が大人しく座っていた。今日は脱走しなかったみたいだ。 「琉門先生! お世話になっております」  櫂は人懐っこい笑顔で琉門に挨拶した。 「矢萩くんは今日も元気だね。そこ、座って」  琉門はテーブルを挟んだ斜め右の一人用ソファを櫂に勧めた。櫂も失礼します、と腰かけた。 「今日はいらっしゃって良かったです。いつも外出なさっているので」  キッチンでコーヒーとシュークリームを用意する佐和はあなたから逃げているんですよ、とは思ったが、言わないでおいた。 「僕はいつも出掛けるほど暇じゃないよ」  コーヒーを入れたカップとシュークリームをトレーに乗せて運ぶ佐和はさっきまで英気を養っていたじゃないですか、と思ったが、これもまた言わないでおいた。  佐和はコーヒーとシュークリームを琉門と櫂の前に置いた。いつもこういう打ち合わせのとき、あくまで家事手伝いの佐和の分は用意しない。  琉門と櫂は丁寧な人たちで、きちんと礼を言った。  佐和はキッチンに戻り、自分の分のコーヒーとシュークリームも用意した。櫂はとても気の利く人で、いつも佐和の分まで持ってきてくれる。  櫂はカップに少し口をつけてから、本題に入った。 「あの、新連載の話なんですけど」  櫂は横に置いたビジネスバッグを漁り、透明なファイルを取り出した。中には企画書が挟んであるようだ。 「その件はこの間、断っただろう」  琉門は企画書も見ず、跳ね飛ばした。 「編集長がどうしても琉門先生で、と申しておりまして。再度ご検討いただけませんか?」 「そう言われてもね……」  今日の琉門も渋った。  その様子を見た櫂は切り口を変えてきた。 「ご納得いただけない部分がございますか?」 「ちょっと企画書を見せてもらえる?」  そう言われた櫂は素早い手つきで企画書をテーブルの上に滑らせた。  琉門はそれを受け取るとすぐにぺらぺらとめくった。 「ここだよ、ここ。テーマのところ」 「『青春恋愛小説』ですか?」 「そう、これ。僕はこういうのを書いたことがない」 「だから良いんじゃないですか。読者さんたちも、僕も読みたいんですよ、先生の新たな一面を」 「新たな一面……」 「それに」  櫂は腰をかがめ、口許に手を添えて耳打ちの体勢になった。 「まだ正式決定ではないですが、映像化の話もありまして」 「ほう」 「やっぱり、活字離れは進んでいますし、映画やドラマになった作品の影響力は大きいんです。加えて、先生にとっても活躍の場を広げる良い機会だと思います。これまでの読者さんだけではなくて、新しいファンも獲得して先生には息の長い作家になっていただきたいんです」  櫂は熱弁した。彼も編集者以前に琉門のファンの一人なのだ。  しかし、琉門は首を縦に振らなかった。 「考えさせてほしい」 「こんなチャンス、二度とないですよ」 「分かってるけど、何だかね」  キッチンでシュークリームを食べている佐和には琉門が渋っている理由が分かっている。  しばらく琉門の目をじっと見つめて返答を待った櫂だが、作家の頑固な態度に折れた。 「分かりました。編集長にも先生からのお返事を待ってもらえるよう伝えます」 「悪いね、シュークリームまでいただいたのに」 「いいえ。良いお返事をいただきたいので」  そう言うと、櫂は企画書と飲みかけのコーヒーを残し、鞄を持って立ち上がった。ちなみに、持ってきたシュークリームは平らげていた。ちゃっかりしている。 「それじゃあ、僕はこれで」  櫂は琉門の横で頭を下げると、そのまま廊下に出た。  佐和は見送りのため追いかけた。 「すみません、矢萩さん。今日もまた返答を保留にしてしまって」  玄関で靴を履く櫂に佐和は謝った。家事手伝いではあるが、生活を共にしている身としては申し訳ない気持ちだ。 「佐和さんが謝ることないですよ。僕も先生には良い作品を書いてほしいので、焦らず待ちます」 「編集長さんへの説得も大変だろうに……」 「それは僕の仕事ですから」  櫂はにこにこと笑いながら、つま先をこつこつと床に打った。 「それじゃあ、失礼します」 「はい、また。今日はありがとうございました」  櫂は言葉で返さず、鞄を肩に掛け直して微笑むと、玄関を出ていった。
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