春の章 左六女の桜 『いろは唄』

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春の章 左六女の桜 『いろは唄』

一、 早朝の神社にて  早朝。リズムよく吐く息は白い。  春霞(はるがすみ)の中、左右交互に踏み出す青いスニーカー。(ただし)は、いつもより大きく腕を振った。  神社へと続く川べりの道。やがて、大きな石の鳥居(とりい)()っすらと見えて来る。 東方の景色が暁色(あかつきいろ)に染まっていた。()はまだ昇っていない。今が最も寒い時間なのだろうか、正は、はあっと息を吐いた。  こんなに早く神社に来たのは、初めてだった。走るのが好きで、小学生の頃から始めた早朝ランニングが、高校2年生になった今でも続いている。  石の鳥居の前では必ず止まって礼をする。正は、神社の長い参道(さんどう)を走らせてもらう事への、最低限の礼儀だと思っていた。  鳥居から本殿まで、一直線に続く長く広い参道がある。50メートル以上はあるだろうか。この参道を正は、毎朝10往復する。  春。参道の左右には、整然と並んでいる桜が咲き誇る。今は、満開。それも刹那、もうひらひらと花びらが舞い始めている。  今朝の神社は、濃い春霞で参道が隠されているようだった。白い闇の中、正がゆっくりと()を進めると、道を横切る(なわ)が見えて来た。(さら)に近づく。それは参道への立ち入りを禁じる、注連縄(しめなわ)だった。等間隔で紙垂(しで)が風も無いのにひらひらと揺れている。  正は、注連縄の真ん中どころにある木製の()(ふだ)に気づいた。墨で書かれていて『本日、午前五時三十分から六時まで、神事(しんじ)が行われる為、()の参道を通ることを禁ずる』と読めた。 「何だよ。こんなこと初めてだよな。神事って何だ? 何かの儀式か」  正は、思わず声を出し参道の右手を見た。パイプ椅子に、浅黄(あさぎ)色の(はかま)白衣(びゃくえ)の装束を着た禰宜(ねぎ)(神職の位の一つ。神主の下の役)が、うつ向いて座っている。正が、よく見知っている人の好い禰宜だ。近寄って見ると、目をつむり寝息が聞こえる。  おそらくここで、参道を行くものに禁忌(きんき)の注意を与える役目をしていたのだろう。早朝ゆえ、追い返す者が誰も来ないこの場所で見張りをしているうちに、眠気を催したのだ。 「神事なら、しかたないか……」  正は、引き返そうかと、再び参道を見た。やはり、春霞で先々が見通せない。腕時計を見ると、午前5時25分だった。 「今から、神事がはじまるんだな」  正は、禰宜を見る。深く寝入っているようだ。  見ることを禁じている神事とは何だろう。  この参道で何が起こなわれるのだろうか。  正は、桜の花びらがひらひらと舞う、春霞の中で行われる神事を、この目で見たいという衝動を覚えた。
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